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「郷土の鎮守様〜府中市東部の神社散歩・その2」
(西武多摩川線沿線編)



<平成21年8月参拝 9月記載>


是政八幡神社」「三谷神社」「人見稲荷神社」「浅間山ノ浅間神社」「武蔵国府八幡神社

府中市・国立市地域
府中市東部の神社その1」「府中市東部の神社その2」「府中・国立の神社その3」「府中・国立の神社その4

府中市の神社マップ

国立市の神社マップ


ちょっくら外に出る用事があったので、ついでに神社を詣でてみるといういつものパターン。



西武多摩川線 いまとなっては貴重な二枚窓

旧駅名の「多磨墓地前駅」が残っている地下通路入口(現在の多磨駅)

西武多摩川線是政駅。駅前の商店街は「KOREMASA・KUN」のキャラクター幕がぶら下がっていた。そういわれてみれば「是政」は人の名前だったなあと思い出しつつ、駅からまずは目的地の神社まで北上することにする。

「是政八幡神社」(旧村社・府中市是政鎮座)

祭神:誉田天皇(応神天皇)

由緒:
天正18年(1590)、高椅兵部丞吉次が石清水八幡宮の分霊を迎え勧請した神社。
天明4年(1784)に多摩川洪水によって社地流失、現在地に遷座。
明治4年10月に村社列格。

地名の「是政」とは、是政村開墾の祖とされる井田摂津守是政に由来する。井田是政は北条氏照の家臣であり、古くからの豪族。
ちなみに井田是政公の墓は東京競馬場第三コーナー(魔の第三コーナーとよばれ大きなケヤキの木がある場所)をすぎたあたりにある。


是政八幡神社

是政八幡神社 正面

是政八幡神社 社殿

是政八幡神社 本殿覆殿
左 
是政八幡神社のケヤキ
樹高14m 幹周5m
府中の名木百選

是政駅から北上する事、約500メートル。直線距離だと300メートルほどだが、道はまっすぐには北上させてくれず、迂回しつつの移動。社地の後方には「中央自動車道」が東西に走っている。
社殿は南面。境内にはひときわ大きい「ケヤキ」の木。参道の脇に佇むとその迫力を感じるの古木といったところか。
本殿覆殿の中をのぞき込むと、朱の輝きが一段と映える一間流造の社殿。落ち着いた濃厚な朱色が重厚さを感じさせてくれ好感触。

駅に戻る途中で雨が降ってきたりする。一休みに立ち寄った途中のスーパーでパンを買ってかじってみたり。こういうちょっとした散歩も楽しいものだ。今回の神社散歩も嫁と一緒にテクテクと。嫁いわく「神社めぐりをしているのではなく、旅をしているのだ」。




「三谷神社」(府中市多磨町鎮座)

祭神:稲倉魂命 秋葉大神 素戔嗚尊

由緒:
不詳

社頭前の街道は「鶴川街道」。調布からの鶴川街道とは対岸の稲城長沼にて合流している。


三谷神社

三谷神社 社殿

西武多磨駅から東に。人見街道をあるき、野川公園・武蔵野学園小学校の方に300メートルほど北上すれば、神社が鎮座している。この通りはかつての「鶴川街道」であるという。調布から鶴川に行く街道とは別にわかれた街道。こんなところで鶴川街道の名前を耳にするのが新鮮だった。
神社は西面。もともとは稲荷社であったようだ。境内はちょっと寂しく感じられるも、それは木々のボリュームが少ないからだろうか。もっとも神社後方は公園となって広がっており、そちらの公園ほうが木々のボリュームが感じられた。





「人見稲荷神社」(府中市若松町鎮座)

祭神:倉稲魂命 天下春命(あめのしたはるのみこと) 瀬織津比当ス

由緒:
武蔵国造兄武比命(=兄多毛比命=エタモヒ命 古墳時代の武蔵国造)が祀った神社であり、六所宮客来三所之神と称される。すなわち六所宮=大国魂神社にあつまる神輿のうち三ノ宮大宮氷川神社の御旅所。
武蔵七党の人見一族が来住していた地とも云われている。
寛喜3年(1231)に武藤左衛門尉資頼が神殿奉行として三所之宮を造営し代々神事に携わったという。
正慶2年(1333)、北条高時と新田義貞が合戦を繰り広げ社殿を焼失。
正平7年(1352)に新田義興(新田義貞の次男)新田義宗(新田義貞の三男)が鎌倉をめぐって足利尊氏らと人見原で合戦を繰り広げており、新田義宗は近隣の浅間山に陣をはって北朝と対峙。神社を監理していた武藤頼次(資頼より4代)は戦死している。
wikiペディア〜武蔵野合戦

以後衰退するが天正8年(1580)に再興するも、天正18年に八王子城主の北条氏照が秀吉方と対峙するために陣をはり村落が再び焼失。

慶長2年(1597)に3社を合祀して稲荷社と称するようになった。

拝殿は元治2年(1865)の造営であったが昭和56年に不慮の出火により焼失。昭和58年再建。


人見稲荷神社 参道

人見稲荷神社 参道

人見稲荷神社 参道 畑の中をぬける

人見稲荷神社 正面

人見稲荷神社

人見稲荷神社

人見稲荷神社

人見稲荷神社 
左 
人見稲荷神社のヤブツバキ

樹高13m
幹就1.5m
府中の名木百選

西武線多磨駅から人見街道を西に歩く。1キロほど西。人見街道は甲州街道と東八道路の抜け道となっているようで、交通量が激しい。歩くにしてはいささか歩きにくい。人見街道を若松町まで進むと北上する小道が分かれており、その突き当たりに人見稲荷神社が鎮座している、かつてまっすぐに延びていたであろう参道は、今では分断されつつも良く景観が残っている。約300メートルほどの参道は畑の真ん中を突き抜けて、こんもりとした杜に突き当たりそこに神社が鎮座している。
雰囲気の良い参道が歩いていて楽しい気分にさせてくれる。歩きにくかった人見街道とのギャップがよりいっそう歩く楽しさを感じさせてくれたのかもしれない。こじんまりとした神社であれど、境内はよく整っており、居心地も良い感じであった。




「浅間山ノ浅間神社」(府中市若松町鎮座)

祭神:木花開耶姫命

由緒:
神社としての由緒は不詳。

浅間山の標高は79.6m。浅間山は、前山・中山・堂山の3つの小さな峰からなり、その名は堂山に祀られている浅間神社に由来する。海抜は約80mと約30mの高低差しかないが、周囲にさえぎるものがないため眺望豊か。
地質学的には多摩丘陵が孤立丘として残ったものと推測される。
浅間山を中心とした人見原では正平7年に足利尊氏と新田義興・義宗兄弟が激戦を繰り広げた古戦場でもある。



浅間神社

浅間神社

浅間神社

浅間神社

浅間神社

人見稲荷神社よりさらに北上する。400メートルほど北上するとそこには都立浅間山公園。三つの峰(浅間山・前山・中山)があつまった山という。そのうちの浅間山の山頂には浅間様が祀られている。浅間山の西側の峰である前山には「関東の富士見百景」もあり、それゆえの浅間信仰なのだろう。

結構な石段を直線的にのぼる。古風な感じがほどよく雰囲気をだしている石段。登りがいがあった。山頂にはちょことんと石祠が鎮座。意外に小さくて拍子抜けしてしまった。「人見原の合戦」の名残を感じつつ太平記の時代に思いをはせる私は、太平記好きだったりする。

浅間山公園からは多磨霊園の南縁を歩いて、多磨駅まで戻る。人見街道は歩くのに懲りたから少しでも歩きやすい道をというわけ。
多磨霊園をぬけて、突き当たったたこ焼き屋でたこ焼きを買って多磨駅で食したら、さてどうしよう。

歩くのも大変なので、バスに乗ってみる事にする。府中市のコミュニティバス「ちゅうバス」がちょうどきたので、それに乗って府中駅へ。




「武蔵国府八幡宮」(大國魂神社境外末社・一国一社の八幡宮 府中市八幡町鎮座)

祭神:八幡神

由緒:
詳細由緒不明。
国府八幡宮は聖武天皇(在位724−749)の頃に定められた一国一社の八幡宮として創立したものという。
現在は大國魂神社の境外末社。

前回掲載ページ


国府八幡宮の山車

国府八幡宮の山車

国府八幡宮

国府八幡宮

国府八幡宮

国府八幡宮

国府八幡宮

国府八幡宮

バスで府中駅に向かっている途中で、なにやら祭礼をしているのに気がつく。ちょうどバスの前に山車が出ていた。せっかくなので祭礼をのぞいてみれば、それは武蔵国府八幡宮の祭礼であった。
18時30分、武蔵国府八幡宮についてみると、普段は人の気配がない境内がにぎやかだった。もっとも祭だというのに参道には人の気配がなくて、境内には留守番的に氏子の皆さんがくつろいでいたといった感じ。主力は山車とともに出払っているようで、のんびりとしたものであった。武蔵国府八幡宮とはいっても八幡町の氏子のお祭り。大国魂神社末社の位置づけであれど、そんなことは関係なく地域密着的にのんびりとした雰囲気に境内が包まれていた。

写真を撮ってみるも、三脚を持参していなかったので夜間撮影はつらし。山車はまだまだ戻ってくる気配がなかったので、雰囲気だけを味わって今回の府中東部の神社巡りは終了。




<参考文献>
北多摩神社誌 
昭和51年8月27日発行
発行者 北多摩神道青年会むらさき会

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