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武蔵国の延喜式内社
(足立・横見)

紫字神社が延喜式神明帳記載神社。
神社名
が複数書いてある場合は延喜式内社の候補として数論ある場合。いわゆる「式内論社」。
神社名リンク先は掲載神社。他の地区は「武蔵国の延喜式内社」。

武蔵国延喜式内社44座(大社2座・小社42座)
武蔵国(埼玉県内−33座中7座)
足立郡−4座横見郡−3座

以下、列記してみたい。
なお一部の表記できない漢字を現代漢字に改める。
不明と記してあるのは本当に不明の場合もあるが、おおむね執筆者の調査不足による不明である。ご存じの方が居られたらお教え願いたいと思う。


足立郡(【アダチ郡】現・埼玉県さいたま・鳩ヶ谷・川口・蕨・草加・上尾・桶川・戸田・鴻巣・北本・伊奈・吹上、及び東京都足立区の一部)
4座(大社1・小社3)

『足立神社』
足立神社は古代における殖田(植田)郷に鎮座し、この殖田郷を本拠としていた豪族足立氏が奉祀していた神社であると考えられる。ただ長い年月で足立氏は衰微し、江戸期には足立神社と称する社が多数にわたる状態となり、式内社を確定するのは難しい。

足立神社(旧村社・大宮飯田鎮座)
祭神:猿田彦命ほか17柱
古くは氷川八幡合社と称す。明治6年に村社列格。明治40年に政府の合祀計画により近隣の村社、無各社計30社を合祀。この中に有力な式内社「足立神社」であった植田谷本村の足立神社水判土村の足立神社も含まれ、この合祀を機に足立神社と社名も改められた。

  *植田谷本村に鎮座していた足立神社は豪族足立氏の本拠地と推定される場所であり、
   同氏の祖が足立神社を氏神として祭祀する集団とみられることから、この足立神社がもっとも有力である。

  *水判土村(ミズハタ村)に鎮座していた足立神社は合祀される前は慈眼寺境内に鎮座していたといわれており
   「アダチ」が川岸などを意味し「芦立」の意味だとすれば、地形的に水判土村にあった足立神社とみることが出来る。
 (*上記二社の足立神社は、現在は飯田鎮座の足立神社に合祀されている。)

上木崎の足立神社(浦和上木崎鎮座・祭神:猿田彦命)は江戸期までは「高塙明神」といった。明治期に上木崎の副戸長であった市川治右衛門が当社を式内社と主張し「足立神社」と改名。ただし付会にすぎないだろう。

他には、久伊豆神社説(鴻巣市笠原)、加茂神社説(さいたま(大宮)市宮原)等がある。


『氷川神社』
氷川神社(明神大社・官幣大社・武蔵国一の宮・さいたま市(大宮)高鼻町鎮座)
祭神:須佐之男命・稻田姫命・大己貴命
第五代孝昭天皇3年(約2400年前)4月末日創建という。古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足を止めて祈願され、また成務天皇のとき、夭邪志(むさし)国造・兄多毛比命(えたもひのみこと)が出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神とした。
聖武天皇年間のとき「武蔵国一の宮」と定められ、さらに醍醐天皇の延長5年(927年)の「延喜式神明帳」に名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。
古代の奉祀豪族である丈部(はせつかべ)氏のなかでも丈部直不破麻呂(はせつかべのあたいふはまろ)は恵美押勝の乱鎮圧の軍功に際して恩賞を賜り武蔵国造に任じられていることからも氷川神社の武蔵国内の影響力がわかる。
明治元年(1868年)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇自らが親拝なされている。明治4年官幣大社となっている。
なお、武蔵国総社「大国魂神社」には一宮「小野神社」二宮「古河神社」とされ氷川神社は三宮とされているが、これは尾張国の例(一宮・真清田神社、二宮・大県神社、三宮・熱田神宮)と同じく国府・国衙に近い地から位置づけられたものと思われる。(神階は氷川神社や熱田神宮の方が当然上位)。
宮司である東角井氏は代々往古より祭祀を司っており、平成10年現在で96代を数えている。


『調神社』
調神社(つき神社・県社・浦和総鎮守・さいたま市(浦和)岸町鎮座)
祭神:天照大御神・豊宇気姫命・素戔嗚尊(江戸期は月読命であったという)
 第九代開化天皇(約1700年前)の時の創建という。第十代崇神天皇の勅命により伊勢神宮の斎主である倭姫命(やまとひめのみこと)が参向し、清らかなる地を選び神宮に献じる調物(みつぎもの)を納める倉を当地に建て、武蔵野の初穂米や調収納所として定めたと伝えられている。
調宮(つきみや)とは調の宮(みつぎのみや)の事であり、諸国に屯倉が置かれた時、その跡に祀った社のことを一般に調宮と呼んだといわれている。
現在の社殿には「鳥居」や「門」がない。これは倭姫命の頃に御倉から調物を清めるために社に搬入する妨げとなるために鳥居・門を取り払った事が起因となり、現代に至っているといわれている。また「狛犬」もない。狛犬のかわりに「ウサギ」が鎮座している。一説に「調(つき)」から「月の宮神社」と呼称され、「月待信仰」によるものから「ウサギ」であるといわれているが、定かではない。
この正倉に集められた足立郡の「調」は東山道(現・中山道ルート)を通じて朝廷に送られていたが、宝亀2年(771)に武蔵国が東海道に編入されると、正倉の役目は終わっている。


『多気比売神社』
多気比売神社(たけひめ神社・通称姫宮神社・村社・桶川市篠津鎮座)
祭神:豊葦建姫命・倉稲魂命
元荒川右岸の加納川に面した集落で、かつては篠津沼という大沼があった。祭神名の豊葦建(竹)姫命から連想できる篠や葦、竹が多い茂った付近一帯で、女神を祀った神社。
江戸期は「姫宮神社」と呼ばれ、式内社「多気比売神社」に比定。ふるくから安産の神として信仰を集めていた。
境内にある「多気比売神社の大シイ」は樹齡約600年とされ、樹高13メートル、根回り6.7メートル、枝張り最大17メートルという大木である。


氷川女体神社(ひかわにょたい神社・郷社・近世武蔵一の宮・さいたま市三室鎮座)
祭神:奇稲田姫命・大己貴命・三穂津姫命
異説として吉田東伍は「大日本地名辞書」のなかで浦和三室の氷川女体神社を本来の多気比売神社に比定している。
氷川女体神社は県内屈指の古社で大宮氷川神社とともに武蔵国一の宮といわれ江戸期には寺社奉行直轄神社として諸国大社19社の1つに数えられてきた由緒ある神社。社伝では崇神天皇のときに造られたという。大宮の氷川神社(男体社・クシイナダ姫神の夫であるスサノヲ神が主祭神)、大宮中川の中山神社(氷王子社・詳細不明)とともに当「氷川女体神社」(クシイナダ姫命が主祭神だから女体)は「見沼」と深い関係にあり、かつては祭礼の「御船祭」が見沼の船上でとりおこなわれていたという。
現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿を直結した権現造りの形式。本殿は三間社流造りで、全面に朱色が塗られており、寛文7年(1667)に徳川家綱が再興したものであり、拝殿は本殿と同時か、もしくは元禄の修理の時に建てられたものとされている。


横見郡(【ヨコミ郡】現・埼玉県比企郡吉見町)
3座(小社3)

『横見神社』
横見神社(郷社・比企郡吉見町黒岩鎮座)
祭神:建速須佐之男命・櫛稲田比売命
創建は和銅年間(708−715)。当社は吉見丘陵の東端に近い平野部に鎮座。付近には「稲荷前遺跡」(古墳時代の集落跡)「御所古墳群」がある。境内末社の稲荷社も稲荷塚という円墳の上に鎮座。本殿も古墳の上にある。
境内にあった松の大木(周囲4.5メートル)は神木として「横見の松」と呼ばれていたが、台風で折れてしまい、今はその根だけが残っている。この木の下に石室があり、豪族の墳墓ではないかとされている。
中世には「飯玉氷川大明神」と呼ばれ穀物の神として崇敬。
慶長年間(1249−56)に当社は大洪水によって流され、御神体が漂着した南の吉見町久保田ではこれを貴い神の御来臨とされ当社分社の「横見神社」が祀られている。
以前は祭神に宇迦魂命をも祀っていたが、明治5年に古墳保全の意味も含めて境内末社の稲荷社が創建されたときに遷座。

また横見神社に関しては吉見町上細谷鎮座の氷川神社(詳細不明)や大里町相上鎮座の吉見神社(詳細不明)とする説もある。


『高負比古神社』
高負彦根神社(たかおひこね神社・村社・比企郡吉見町田甲鎮座)
祭神:味耜高彦根尊・大己貴尊(一説に素戔嗚尊)
和銅3年(710年)創建と伝えられる古社。田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、このポンポン山の下もかつては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
当社の祭祀には吉志(きし)氏(壬生吉志・渡来系氏族=屯倉管理か?)が関係していたとされる。横見郡三座のうちでもっとも古く、天平勝宝7年(755)に官符がひかれており(入間郡の正倉火災に関係)、奈良時代にはすでに官社となっていた。
中世以降は衰退し不明。「玉鉾氷川名神社」と称していた。氷川社となったのは天穂日命の6代、五十根彦命の別名を高負比古命とする氷川神社宮司家の伝承によるものという。天明3年(1783)に再興。
 祭神はいずれも出雲系であるが素戔嗚尊が混入したのは牛頭天王信仰によるものとされる。
ポンポン山(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38Mの小山(磐座)の頂上に鎮座している。社殿後方の巨岩に近い地面を踏みならすと「ポンポン」と太鼓のような響きがするために「ポンポン山」と呼ばれている。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説がある。
説話として、何者かがこの山に財宝を埋めておき、盜まれぬようにするにはどうしたらよいかを当社に伺い立てたところ、神のお告げはこのまま霊地に埋めておくようにということであった。すると不思議と盜人が入り込むとポンポンと山なりがして身震いが止まらなくなるので、いかなるものも財宝を盗み出せなくなった、とされている。

また高負比古神社に関しては吉見町上細谷鎮座の氷川神社(詳細不明)とする説がある。


『伊波比神社』
伊波比神社(いわい神社・村社・比企郡吉見町黒岩鎮座)
祭神:天穂日尊(アメノホヒ尊)・誉田別尊(ホンダワケ尊=応神天皇)
吉見丘陵の東端部、旧荒川筋沿いに鎮座。付近は500基以上が確認されている一大古墳群地帯。
安閑天皇元年(534)に武蔵国造の地位を巡って争いが行われ、朝廷に献上された「横見郡」が屯倉(=天皇直轄地)に定められたために周辺地域に式内社三座が集中している。
当社は和銅年間(708−715)の創建と伝える。嘉祥2年(849)に伊波比神社は従五位下に敍せられ、貞観元年(859)に磐井神として官社列格。平安期においても朝廷から地方の有力神社として認められていた。
中世期には源範頼(頼朝の弟)の所領となり、子孫が吉見氏として四代続き、在地信仰として機能。このころは岩井八幡宮と称され社号額も旧社号のまま残されている。
従来は大己貴命ともいわれ、誉田別尊は合祀したものであったが、誉田別尊が崇敬を集め、旧祭神は忘れ去られたという。またかつては単に「八幡社」と呼ばれ、現在の社殿の西方にある「八幡台」と呼ばれているところが旧境内であるといわれている。応永初年(1394)ごろに現在地に移転した。



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