「尾道向島の神社散歩」
<平成18年5月参拝・平成21年3月記載>
平成18年5月。私にとっては二回目の尾道。
このときの私は「向島」の向こうの「岩子島」。そこまでレンタサイクルをしていた。(尾道向島・岩子島レポ)
朝8時に駅前で自転車を借りて、岩子島へ45分かけて走り抜ける。そうして「岩子島ノ厳島神社」を詣でたあと、向島の神社を幾社か参拝。
今回参拝した神社以外の向島の神社はこちら。
「向島東富浜ノ厳島神社」「向島ノ亀森八幡神社」「向島ノ岩屋荒神社」
岩子島から戻って向島へ。
以下 「五鳥神社」「一之宮神社」「胡子神社」「覚明神社」「向東八幡宮」「大元神社」を掲載。
「五烏神社」<御烏神社>(広島県尾道市向島町向島鎮座)
神社由緒・神社祭神等未確認
当社には住吉神社が合祀されている。その「住吉祭曳き船」は向島町の無形文化財となっている。
室町後期頃迄は五烏神社の北側(前側)は入り海であったとされ、昔は管弦船で海上を氏子地区と往復していたと推測されている。
午前10時。
岩子島から戻って、向島を貫く国道317号を走ると「五烏神社」という神社があった。ちょうど海から平野部と山間部の境目に位置するかのように鎮座。丘を背にして北面していた。参道脇にゲートボール場があって、参道を挟んで大きな木が見事な枝を広げていた。
開放的な境内の先に、これまた開放的な拝殿。右手を見れば摂末社群の社殿であろうか? 神社の由緒等はわからないが、レンタサイクルで汗をかいた身体を休めるのに、居心地の良い神社空間がここにあった。
「一之宮神社」(広島県尾道市向島町向島鎮座)
神社由緒・神社祭神等未確認。地域集落の一番の神社という意。
一説に木曽義重の家臣が建久7年(1196年)に建立という。
境内には天保2年(1831)建立の「川尻(王太子)常夜燈がある。
向島は往古に7つの島より成立していた湿地の多い群島であったとされ、鎌倉期には一之宮神社の近くまで入り海であり当時は「歌島」と呼ばれていたという。
午前10時30分。
そのまま国道317号を北上すれば「しまなみ海道」の向島インターをぬけていくと、一之宮神社という神社が鎮座していた。ちょっとした角地のような場所に鎮座していた。社地の後方は地蔵院というお寺。社殿は北西を向いていた。地域の一之宮として崇敬されていたことを表している社名。敬意を表して、立ち寄ってみる。奥まった本殿の雰囲気と舞台をかねているような吹き抜けの拝殿。上記の五烏神社と似ていると云えば似ていた。西国によくみる気配。こぢんまりとしているがよい佇まいだった。
「胡子神社」(広島県尾道市向島町向島鎮座)
神社由緒・神社祭神等未確認。
社殿は昭和61年修築。
付近は海物園跡という。(西富浜烏崎)
元和5年(1619)浅野長晟が紀州より芸州藩主として入府。譜代商人の天満屋(富島)治兵衛とともに、延宝年間(1673−1680)より元禄年間(1688−1703)にかけて富浜塩田の開発を完了。烏崎一円を庭園として」「海物園」と名付けたという。
境内 |
社殿 |
午前10時50分。
小さな祠。水にかこまれた空間のなかに島があり、そこに胡子神社が鎮座していた。昔、海物園とよまれた庭園の名残。ちょっと面白そうだから訪れてみた。西富浜の地は島の北西の尾道水道に近い場所。向島のいまは周辺に民家が多くなっているが、静かで雰囲気の良い景観。近くに造船所があるとは思えない立地条件だった。
「覚明神社」(広島県尾道市向島町向島鎮座)
祭神:木曽義仲公・木曽義重公・太夫坊覚明(=木曽義仲公の右筆・軍師)
元暦年間(1184−1185)に木曽義仲の子である木曽義重が大夫坊覚明や家臣30余名を伴い島内の川尻に落ち延びている。この地で家臣団は土地を開拓し寺社を再建。一族の自立を見届けて太夫坊覚明と義重は信州に帰り、義重は安曇野の地で一城の主になっていると神社由緒では記載されている。
大夫坊覚明/海野幸長 〜wikiペディア
午前11時45分。「亀森八幡神社」によってから参拝。
向島を縦貫する317号の川尻集落の南側で、江尻川の東側に鎮座。こんなところで木曽義仲の名前をみるとは思わなかった。木曽義仲の遺臣が尾道向島に落ちていたという歴史の一幕を静かに伝えている場所。とても小さな境内に、小さな祠。
境内の植樹碑には「埼玉県嵐山町」「富山県小矢部市埴生地区」「広島県向島町」が連盟で植樹をしていた。いずれも木曽義仲公ゆかりの地。埼玉県嵐山に鎮座している「鎌形八幡神社」(当サイト記載先)には木曽義仲産湯があり、富山県小矢部市埴生地区に鎮座している「埴生護国八幡宮」(公式サイト)には倶利伽羅峠に挑む木曽義仲が戦勝祈願をしている。そして尾道向島の「覚明神社」では遺臣をまとめた木曽義仲の軍師であった大夫坊覚明が祀られている。
木曽義仲公ゆかりの地3地域が連盟している奥深さ。神社はとても小さくても、その伝える歴史は奥ゆかしい。歴史伝承の地として、とても新鮮な気持ちで訪れる事が出来た。
「向東八幡宮」<宗東八幡神社・東八幡宮>(広島県尾道市向東町鎮座)
神社由緒・神社祭神等未確認。
和泉式部手植の二本松
白檀樹(真柏) 樹齢約1000年
平安中期(990年頃)に和泉式部が宇佐八幡宮分霊を勧請し、当神社を建立した記念樹と伝えられている。
もともとは約10メートル西の新手水舎付近に植えられていたが、昭和11年に境内整備をした際に移植してそして枯れてしまった。
正面 |
正面 |
拝殿 |
拝殿 |
拝殿 |
本殿 |
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左:和泉式部手植の二本松と伝承 |
14時15分。
向島には一国一社の備後国総八幡とされる「亀森八幡神社」が鎮座している。そこから向島循環線とも呼ばれる317号線を東にすすむと「東八幡宮」が鎮座している。向東の八幡宮ゆえに向島の東側に鎮座かと思うが、いうほどには東ではなく向東町の八幡と考えると町の西側に鎮座。細かい由緒はわからずじまいであったがかなり大きな神社。宮廻川と森金川にかこまれた丘の上に鎮座していた。島内でも要所で有る事がなんとなくわかる鎮座地であった。
和泉式部が実際に向島に来たかどうかはいざしらず、そんな伝説が神社にものこっているほどの古社という。静かな境内でのんびりとした時間を過ごす。
「大元神社」(広島県尾道市向東町鎮座)
(おおもと神社)
主祭神:大元大御神
(天常立尊・国常立尊・伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大御神)
神社としての由緒由来は未調査。昭和39年に大元大御神として勧請という。
神社では当地を「大神山」と呼称し、倭姫がお隠れになった終焉の地としているが詳細不明。
境内には多数の磐倉を確認する事が出来る。
参道 |
参道 |
拝殿 |
本殿 |
磐倉 |
遠望できるのが「謙吉の丘」 |
尾道大橋(奥)と新尾道大橋(手前) |
右の山が「浄土寺山」 |
15時。
しまなみ海道・尾道大橋の向島西側にこんもりとした山があった。それが岩屋山。下から山をみると結構な立派な岩がみれたので赴いてみる事にする。実は以前行った「岩屋荒神社」のさらに奥に位置しており、ちょっと気になっていた場所なのだ。山を登ってみると、予想通りに立派な磐倉を有した神社があった。この場所から尾道を遠望する気持ちよさ。
ここから尾道大橋を自転車でわたって橋の途中にある料金所を15時30分に通過。こうして向島サイクリングは約8時間走り抜けて終了。
かなり疲れたが、なかなか有意義な時間であった。
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