「郷土の鎮守様〜新宿西部・中野東部の神社散歩」
<平成22年8月参拝 10月記載>
01「十二社熊野神社」 (新宿区西新宿鎮座)
02「成子天神社」 (新宿区西新宿鎮座)
03「中野氷川神社」 (中野区東中野鎮座)
04「東中野ノ第六天神社」(中野区東中野鎮座)
05「鎧神社」 (新宿区北新宿鎮座)
06「月見岡八幡神社」 (新宿区上落合鎮座)
07「下落合氷川神社」 (新宿区下落合鎮座)
08「東山藤稲荷神社」 (新宿区下落合鎮座)
09「上高田氷川神社」 (中野区上高田鎮座)
10「中井御霊神社」 (新宿区中井鎮座)
11「葛谷御霊神社」 (新宿区西落合鎮座)
新宿区の神社googleマップ
中野区の神社googleマップ
「郷土の鎮守様〜新宿東部の神社散歩」
「郷土の鎮守様〜新宿西部・中野東部の神社散歩」
「郷土の鎮守様〜新宿北部の神社散歩」
今回は新宿西部。
「十二社熊野神社」<新宿総鎮守・新宿区西新宿鎮座>
(じゅうにそうくまの神社)
御祭神:櫛御食野大神(くしみけぬのおおかみ)・伊邪奈美大神
応永年間(1394−1428)に紀伊国からきて中野一帯を開拓し中野長者と呼ばれた鈴木九郎が郷土の熊野の十二社を勧請。
鈴木家は紀州藤代で熊野三山の祀官をつとめる家柄であったが源義経に従ったため奥州平泉より各地を敗走し鈴木九郎の代に中野(中野坂下−西新宿一帯)に住むようになったという。
当社は九郎がこの地を開拓を行うと共に自身の産土神であった熊野三山より若一王子宮を祀ったことに始まる。
その後、鈴木家は家運が上昇し中野長者とも呼ばれる資産家となり応永10年(1403)に熊野三山の十二所権現すべてを祭ったとされる。
もと境内には池や滝があり江戸西郊の名勝地として有名であった。
付近には諸大名の下屋敷があり、将軍家が鷹狩のさいに立ち寄ったり、池を囲んで料亭が立ち並び十二社の名を高めた。
昭和20年5月に戦災を受けたが幸いにも本殿をはじめ社殿・末社等は被災をまぬがれた。
昭和30年、戦災で焼失した神楽殿・社務所を復興。
昭和37年頃より旧淀橋浄水場跡地に新宿副都心計画が進められ、境内地約400坪を道路として接収され社殿・神楽殿等のいっさいの建造物をを移転。社務所を新設。
新宿中央公園 |
熊野神社入口 |
正面 |
訪れたときは修復工事中でした |
|
|
|
|
太田南畝の水鉢(文政3年・1820 3月)奉納
太田南畝(蜀山人)の書による銘文が刻まれた水鉢 |
|
|
享保12年(1727)の狛犬 |
下がくりぬきになっていないのが珍しい |
末社の大島三社と胡桃下稲荷社 |
11時45分。スタートは京王線、初台駅。今日はここから新宿西部地区を北上することにする。
12時ちょうど。神社到着。
新宿中央公園の北西隅。都庁の北西側に鎮座。新宿の総鎮守。社殿は南面。
訪れたときはちょうど社殿修復工事中だった。ちょっと残念。このあとの秋大祭時には工事が完了していたようなので、タイミングを早まったといったところか。神社に行きたくなったときにいくもので事前の情報収集を格別にはしていないので、ときどき工事に直面するのはいたしかたがないことなのだ。
境内はさすがに新宿中央公園のすぐ隣だけあって緑が豊富。散歩がてらに立ち寄る人も多い。
境内社厳島神社の水辺がお気に召したらしい西洋系の外国人さんに記念撮影を頼まれシャッターを押したり。英語でなんて言うのだろうとドギマギしてみた。
境内社ひとつひとつにも神饌が捧げられており、まるで祭事のような雰囲気。たまたまなのか毎日なのかはわからないが。
近いうちに工事完了の神社でキチンと参拝をやり直したい、そう感じつつ今日はさらりと参拝終了。
熊野神社の交差点から北上。次の神社を目指す。
「成子天神社」<新宿区西新宿鎮座>
御祭神:菅原道真公
延喜3年(903)創建。
建久8年(1197)源頼朝公が社殿造営の記録が残る。
応永年間(1394−1428)に上杉憲実が文書類を納めて社殿造営。
慶長年間(1649−56)将軍家光より春日局に柏手成子の地を賜る。寛文元年(1661)春日局御造営後に円照寺に管理させる。
元禄2年(1689)春日局死後、麟祥寺に賜る。
寛政3年(1791)に火災にて神宝・記録のことごとくを焼失。
さらには昭和20年5月25日の戦災にて社殿焼失。ただちに仮宮にて再建。
昭和25年に神楽殿・社務所を建設。昭和41年9月25日に再建、現在に至る。
<成子天神社の富士塚>
大正9年(1920)境内にあった天神山を改造して区内で最後に築造された富士塚。
溶岩で築かれ高さは約12メートルと比較的大規模。
昭和58年(1983)に浅間神社の御祭神木花咲耶姫命の石神像(2m)を富士塚の頂上に建立。さらに富士塚登山道に沿って七福神の石神像(1m)を設置している。
昭和12年建立社号標は奈良武次陸軍大将 |
|
第二鳥居 |
境内 |
文政13年(1830)の狛犬 |
文政13年(1830)の狛犬 |
|
|
|
|
本殿を後方から |
成子天神社の富士塚 |
富士塚脇の浅間神社 |
成子天神社の富士塚 |
成子天神社の富士塚山頂には木花咲耶姫命の石神像と奥宮。 |
12時40分。成子天神社に到着。十二社熊野神社より約800メートル北東に鎮座。メトロ西新宿駅の近く。社殿は南面。
参道だけが通りに面して伸びており、50メートルほどいった第二鳥居から神社の境内といったあんばい。社殿の扁額は「天満宮」。
なかなかに立派な社殿。
天満宮であれど、境内の後方には「富士塚」がある。もともとは天神山といったとのことだが大正期に富士塚を造営。富士塚のイメージは江戸期であれど、大正期でも盛んに造築されていたことがわかる。大きな富士塚は見ごたえがあり、溶岩での造築も立派。
「中野氷川神社」<中野区東中野鎮座>
御祭神:須佐之男尊・稲田姫尊・大己貴尊
旧中野村の総鎮守。
創建は長元3年(1030)に源頼信が平忠常を征討の際に武蔵一の宮の氷川神社を勧請したことに始まる。
応永年間(1394−1428)に宝仙寺中興の僧聖永が改築し、文明9年(1477)には太田道灌が練馬・石神井両城の豊島兄弟を攻略するにあたり戦勝祈願をしている。
昭和44年に境内再整備し社殿を鉄筋コンクリートにて新造。
社号標は陸軍大将本庄繁謹書 |
参道 |
昭和16年の狛犬 |
昭和16年の狛犬 |
|
|
|
|
成子天からさらに北西のほうに歩んで、いったん中野区にはいる。
13時30分。
北新宿から神田川をわたる。駅で言うと東中野駅の南400メートル。中野坂上駅の600メートルの地に鎮座。
社殿は南面。
境内では結婚式をやっており、ちょっと忙しそう。朱印はまたの機会で。境内には由来不明で狸像があったり。
長居をするにはばたばたしているので、次を目指すことにする。
「第六天神社」<中野区東中野鎮座>
御祭神:天神第六代坐榊皇大御神
面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)
武蔵野の平原に一丘陵があった。そこは景行天皇の頃に日本武尊が大神を奉斎した旧跡と伝承され、のちに里人が浅草蔵前の榊神社(第六天榊神社)より大神の御分霊を迎えて社殿建立。
現在も台東区蔵前の榊神社の第一摂社として祭祀が行われている。
13時50分。
中野氷川神社から東に300メートルの地に鎮座。境内入口の鳥居は北面しており、社殿は東面している。東に約100メートルで神田川。
社殿の前では猫さんがお昼寝中。
私が訪れても動じずに体を動かすこともなく顔だけを私のほうに向ける。なんか邪魔をしてしまったようで申し訳ない。
「鎧神社」<新宿区北新宿鎮座>
御祭神:日本武尊・大己貴命・少彦名命・平将門公
当社は江戸期までは鎧大明神と称していた。
社名は日本武尊御東征のみぎり甲冑六具をこの地に納めたとされている。
天慶3年(940)平将門公が下総猿島に亡ぶと土俗の追慕して天暦(947−57)ごろに将門公の鎧も当地に埋められたという。
別説によると藤原秀郷公が重病を得て円照寺薬師如来に参詣した折、将門公の神霊の祟りなるを恐れ、将門公の鎧を寺内に埋め、一祠を建ててその霊を祀ったが、病がたちまち癒えたのを里人恐れ畏み、以後鎮守の杜として崇敬してきたという。
明治初期に将門公は朝廷に反乱を起こしたものとして官の干渉により末社に移されたが、戦後も本社に復している。
昭和20年5月25日の空襲により社殿焼失。
昭和29年に拝殿・幣殿を復興。昭和36年に本殿・社務所を再建。
氏子地域は北新宿全域と西新宿の一部。
|
|
|
|
天保7年(1836)の狛犬 |
天保7年(1836)の狛犬 |
狛犬型庚申塔・叫形像(雌)は享保6年(1711) |
こちらは阿形像(雄) |
境内社の両脇に狛犬型庚申塔があります |
再び神田川を東に戻って新宿区へと。
14時10分。
東中野駅と大久保駅の中間地点。ちょうどカーブを描いている中央線の南側に鎮座している。
鎧神社というあまり聞きなれない神社は日本武尊・平将門という関東に馴染み深い武き者ゆかりの鎧にちなむという。
社殿は東面している。
境内脇の末社には狛犬型庚申塔が鎮座。正直って、狛犬と庚申塚の境界線は良くわからない。風変わりな狛犬といってしまったらその通りだろう。
「月見岡八幡神社」<新宿区上落合鎮座>
御祭神:応神天皇・神功皇后・仁徳天皇
源義家公奥州征討以前の社にして、義家公当社に参詣して戦勝祈願をしたという。
天保7−11年(1836−40)にかけて拝殿を建設。
明治39年に北野神社、昭和2年に浅間神社を合併。
昭和20年5月の空襲にて社殿焼失。
昭和23年に本殿、昭和29年に社務所を再建。さらに昭和31年に付属保育園を設立。
しかし社地の多くが東京都下水道局用地に組み込まれたため、近隣の公園と社地を交換し、昭和36−7年に本殿・境内社・水舎・神楽殿」。社務所・保育園舎・築山等を再建または移築し、昭和37年に遷座祭を斎行。
|
|
境内社 |
富士塚 |
庚申塔 正保4年(1647)造立の新宿区内最古の庚申塔 |
14時45分。
鎧神社から北上すること1キロ。落合中央公園の西側に鎮座。社殿は東面。公園の西側の静かな住宅街の中に鎮座。神社と保育園が同居しており、幸いなことに日曜日だから静かであるが、平日であれば園児たちで大賑わいな境内かもしれない。
境内の奥には富士塚もあった。暑い最中に休まるには良い環境。気持ちよい風が吹いているた。
「下落合氷川神社」<新宿区下落合鎮座>
御祭神:素戔嗚尊・稲田姫命・大己貴命
第五代孝昭天皇(今より2400年前)の御代と伝承される小社。
昭和20年5月の戦災にて社殿焼失。
御霊代は西落合の御霊神社に御動座。昭和21年に仮社殿仮遷宮、昭和26年に本殿・拝殿を再建し御遷宮。
15時5分。
月見岡八幡から北東に約800メートル。
西武線下落合駅からは北東に300メートル。神田川の北側に鎮座している。新目白通りに沿って、その南側には西武新宿線。
ちょうど社殿が西側にあるので、夕方のこの時間ともなると撮影がしにくく逆光となってしまった。それゆえ正面の写真が撮れず。
ちょっと頭がボーっとしてきたので、ここでゆっくり休んで、今日最後の一社に向かう。
「東山藤稲荷神社」<新宿区下落合鎮座>
御祭神:宇迦之御魂神・佐田彦神・大宮能売神
清和天皇の後孫であった経基王(源経基)が当地に居住され、延長5年(927)京都稲荷山より勧請。源氏一族の守護神として崇敬。
「藤稲荷神社」「富士稲荷神社」とも呼称。
源氏一族の守り神として崇敬をあつめ信仰される。
平将門が朝廷に対して反乱を企てたとき東山稲荷の大神よりご神託があり、経基がさっそくに探りを入れたところご神託どおりであったため、朝廷の許しを得て反乱を平定。この功績により源姓を賜った経基は東山稲荷を源氏の氏神として崇敬したのが由縁とのこと。
昭和20年5月24日の空襲にて社殿焼失。昭和28年仮殿建設。氷川神社より同年仮遷座。
昭和40年参道口整備、社名標を新たにした。昭和45年社殿再建、46年に鳥居建立。
15時15分。このあたりは「おとめ山」というらしい。社殿後方は「区立おとめ山公園」。「おとめ」といわれれば「乙女」と言いたいところではあるが、実際には「御留山」。将軍家の狩の獲物を管理していた「立ち入り禁止の山」というわけだ。
そんなおとめ山の南西に鎮座。社殿は南東を向いている。
境内自体はとても窮屈。とても窮屈で小さな社殿ではあるが由緒は奥深く源氏の氏神ともなっているという。
神社とは関係ないとは思うが、神社の脇のアパートが鳥居チックなカラーリングをしていたのが面白いところでもある。
このあとはJR目白駅に。駅は神社から北東に約600メートルの地。この日の神社散歩も切り上げで。
月を改めて9月。土曜日の朝方に新宿区内で行き損ねていた西部の神社を訪れてみた。
「上高田氷川神社」<中野区上高田鎮座>
御祭神:須佐之男尊
上高田地区の鎮守。享徳2年(1453)に大宮氷川神社より勧請。
長禄年間(1457−60)には大田道灌がしばしば当社に詣でたとされ松を植栽したと伝承されている。
この松は昭和12年(1937)に枯木となってしまっている。
大正15年(1926)に現在の社殿が建立され、昭和29年(1954)には神楽殿、昭和63年(1988)には社務所が完成している
|
新旧大小の鳥居と扁額が並ぶ |
|
|
|
|
神楽殿 |
稲荷・天満・八幡の幟が並ぶ境内社 |
西武線新井薬師前駅から400メートルほど東に歩く。土曜日の出勤前の寄り道神社散歩なのだ。
午前7時30分。神社到着。まだ早朝とも言ってよい時間。すがすがしい空気が気持ちよい。
社殿は南東を向いて鎮座。
木漏れ日がまぶしい境内。早朝散歩にはもってこいな空間。近所のかたがたも散歩がてらに参拝している様子。
もともと新宿西部の未参拝社に訪れるのが目的であったが、ここは中野区。このあたりは新宿と中野の誤差範囲ということで参拝なのだ。
「中井御霊神社」<新宿区中井鎮座>
御祭神:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・武甕槌命
古くから落合村中井の鎮守。
景行天皇の40年、日本武尊が東征を行いその神孫の一族が故郷大和国の氏神御霊社を鎮斎したのが創始起源とされる。
新編武蔵風土記稿では「五霊社はおびしゃ祭を行う、六の日安産の祈祷をなす、神前の紅白の帛布を頒ち、紅布を得れば女子、白布を授かれば男児を挙ぐべしとの伝承があって遠近の賽者が絶えない」と記載される。
毎年1月13日には備射祭が奉納されている。これは正月の弓神事(歩射)として弓矢で的を射てその年の豊凶を占ったり、悪霊を駆除して豊作を祈る行事。近くの葛谷御霊神社でも同様の備射祭が行われている。
社号標は陸軍大将吉田豊彦謹書 |
|
|
|
正徳五年(1715)の狛犬 |
正徳五年(1715)の狛犬 |
昭和2年の狛犬 |
|
7時50分。
妙正寺川にかかる御霊橋をすぎれば、ちょっとした台地に神社が鎮座。
さきほどの氷川社からは約500メートル北東。
神社は東面し、社殿背後に妙正寺川を備えるレイアウト。社殿の北側には目白大学。
社殿内では神職さんが朝の祭祀を行っているご様子。邪魔をしないように参拝。
御霊とあるけど、御霊信仰系ではなく、江戸期には五霊(=五柱の神々)とされていたようで、カテゴリーとしては八幡神社で問題なさそう。境内には応神天皇祈念の「全国八幡宮連合の幟」もたっいたぐらいだし。
「葛ヶ谷御霊神社」<新宿区西落合鎮座>
(くずや)
御祭神:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・武内宿禰
寛治年間(1087−94)に源義家が奥州安倍頼時を討伐のとき山城国桂の里の一族義家公の軍勢に従い、常に氏神八幡宮に勝利を祈って無事賊徒を亡ぼし京都に帰還の途中、桂の里の一族がこの地の河川・地形・風土に恵まれた土地にとどまり氏神八幡宮及び神功皇后・武内宿禰を祀ったことに始まる。
「桂の里」がなまって「葛ヶ谷」となったとされている。
昭和27年のキティー台風によって社頭崩壊し鳥居を再建。
昭和46年に本殿再建。昭和56年に社務所を新築。
8時20分。
妙正寺川にそって遊歩道を北上する。約800メートルほど歩けば哲学堂公園。その東側に神社は鎮座している。神社は東面しており、社殿背後に妙正寺川を備えるレイアウトは中井御霊神社と同様。この両社の関連は良くわからないし、祭神も一部は違うし、由来伝承もそれぞれが違っている。共通点は八幡社であることと、同様な備射祭を行うこと、であろうか。
こちらはちょうど祭礼の準備真っ最中。朝早いので本当に準備でばたばたしている様相(昼頃に神輿巡行もあるのだろう)なので長居はやめておく。
私はこのあとは仕事だったので、早々に切り上げ。
これにて新宿区西部・中野区東部は終了。
参考文献等
各神社境内の案内板等
東京都神社名鑑
|