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「郷土の鎮守様〜新宿東部の神社散歩」

<平成22年4月参拝/5月記載>

  「桝箕稲荷神社」「須賀神社」「於岩稲荷田宮神社
  「大京神社」「多武峯内藤神社」「西向天神社」「抜弁天厳島神社」「出世稲荷神社
  「稲荷鬼王神社」「夫婦木神社」「皆中稲荷神社

  「新宿区の神社地図

郷土の鎮守様〜新宿東部の神社散歩
郷土の鎮守様〜新宿西部・中野東部の神社散歩
郷土の鎮守様〜新宿北部の神社散歩



4月の良く晴れた日曜日。ちょっと時間があったので、新宿界隈の神社を急に思い立って参拝してみる。
新宿区東部の神社をてくてくと歩いて参拝。



「桝箕稲荷神社」 (新宿区坂町鎮座)
 (ますみいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦能御魂命
相殿神:猿田彦命・姫大神

元和年間(1615−24)に坂町の鎮守として奉斎。当初は「真須美稲荷」と呼称されていたという。
稲を司る神様ということからいつのころからか稲穂にちなみ「桝箕(ますみ)」と称されるようになった。
昭和20年5月の空襲にて社殿焼失。
昭和23年に仮社殿造営。昭和34年に新社殿造営。現在に至る。


9時。
最初の目的地に到着。
都営新宿線「曙橋駅」から靖国通りを東に進むと左手に防衛庁が見えてくる。その南側の路地に鎮座。曙橋からは東に約500メートル。
社殿は東面をしている。

道路の延長線に神社が鎮座しているようで、ちょうど道が東西に抜けている。ちょっと落ち着かない雰囲気ではあった。南側には児童公園もあり、ちょっとした広場になっている。神社自体はよく手入れされており、社殿も綺麗に掃除してあった。小さいながらも大事にされている気配が伝わっている神社であった。




「須賀神社」 (旧郷社・新宿区須賀町鎮座)

御祭神:建速須佐能男命・宇迦能御魂神
相殿神:日本武命・天日鷲大神・大国主命

創建年代は不詳。もともとは稲荷社であった。
江戸開府以前は四谷御門前に鎮座していたが、寛永11年(1634)外堀の掘割普請の用地となり替地として現在地に遷座。
寛永20年(1643)に神田明神内に祭ってあった建速須佐能男命を四谷の氏神として勧請。
地主神である稲荷社地へ天王社(現在の須賀神社)が勧請され寛永21年(1644)より両社をもって四谷総鎮守となした。

明治元年に須賀神社と改称。明治社格では旧郷社。
昭和20年5月の大空襲によって本殿および天白稲荷社を残して全焼。
戦後再興し、現在に至る。

公式サイト http://www.sugajinjya.org/


平沼騏一郎揮毫・紀元2600年記念建立の社号標

平成2年建立の鳥居

9時20分。須賀神社に到着。
桝箕稲荷神社から南西の方向に進む。四谷三丁目駅から400メートルほど南東。桝箕稲荷神社からは約1キロ南西に鎮座。このあたりは寺町でもあるようでいくつかの神社仏閣が集中している。
社殿は東面している。
神社は四谷の丘に鎮座しているような様相。ちょっとした高台となっている。
社頭前では散りかけの桜がひらひらと舞っており、雰囲気を演出させてくれる。
気分よく参拝ができたので、せっかくなので御朱印を頂戴する。忙しい合間を縫って、御朱印を書いていただき恐縮。
拝殿内では江戸時代に描かれた「三十六歌仙絵」(しんじゅくく有形文化財)が掲げてあり、覗き込むようにして眺めるのも楽しいものであった。




「於岩田宮稲荷神社」 (都旧跡・新宿区左門町鎮座)

御祭神:田宮お岩命

寛永13年(1636)、働き者であった徳川家の御家人田宮伊右衛門の妻であった田宮岩(父は田宮又左衛門)が没し、お岩様が信仰していた屋敷神社が「お岩稲荷」と呼称されるようになったことからはじまる。
屋敷神であったお岩稲荷が田宮家を再興したともっぱらの評判で、田宮家が享保2年(1717)に「於岩稲荷社」として勧請。

江戸後期の文政8年(1825)、歌舞伎作者鶴屋南北が200年たっても人気の於岩様の名前を使って物語を創作したのが「東海道四谷怪談」。人気のあった「於岩様」の名前を借りて、当時江戸界隈で評判になったいろいろな事件を拝借した怪談話であった。
歌舞伎は大当たりし、於岩稲荷の崇敬もさらにたかまった。最初は歌舞伎に出演していた役者がもっぱら参拝をしていたが、そのうちに上演前に参拝をしないと役者が病気になったり事故が起きるといわれはじめ、なにしろ怪談話ゆえに、いつのまにか「於岩」の怨霊・祟りと於岩稲荷神社が結びついてしまった。

1870年ごろに社号を「於岩稲荷田宮神社」と改称。
明治12年(1879)に四谷左門町にて火事が発生し、社殿焼失。当時、歌舞伎役者からは「芝居小屋から四谷まで毎度出かけていくのは遠すぎる」という声も上がっており、社殿焼失の機会に隅田川の畔にあった田宮家の飛地に遷座。それが現在中央区新川に鎮座している於岩稲荷神社である。
新川の於岩稲荷神社は昭和20年に戦災で焼失し、戦後、四谷・新川ともどもに復活して、現在は2社の「於岩稲荷神社」が鎮座している。


於岩稲荷田宮神社

於岩稲荷田宮神社

こちらは於岩稲荷霊堂・長照山陽運寺

於岩稲荷霊堂・長照山陽運寺 神社との関係は不明

9時50分。於岩稲荷神社に到着。
須賀神社の200メートル西側であれど、まっすぐには道がつながっていないので、道なりには400メートルほど歩く。
四谷三丁目駅からであれば外苑東通りを南下すること約300メートルといったところか。

正直、お岩様というのはあまり存じていない。それこそ「四谷怪談」という名称は聞いたことがあるといったあんばい。
この於岩稲荷田宮神社は、ちょっとほかとは違う由緒を誇っている。それこそお岩様が崇敬していた屋敷神が発展して、いつの間にか歌舞伎演目の主人公とされ、いつの間にか祟り神とされてしまったようだ。

斜め向かいには於岩稲荷霊堂・長照山陽運寺というお寺もある、、於岩稲荷田宮神社との関係はよくわからないが、由緒では神社は中央区新川に移転している時期があったので、もしかしたらこの地に神社がなく崇敬対象としてお寺があったのかもしれない。




「大京神社」 (新宿区大京町鎮座)
 (だいきょうじんじゃ)

御祭神:火之迦具土神
相殿神:宇迦之御魂命

もともとは寛永・正保年間(1624−8)頃に当地に屋敷を構えていた大久保右京亮教隆・教勝の屋敷内神社であった。
創建当初は秋葉神社であったが、昭和11年に右京神社と改称。
昭和18年に当社が鎮座している右京町と隣町の大番町が合併し大京町となったため、戦後長い間氏子崇敬者より社名変更の要望があり昭和42年に大京神社と社名が変更された。
社殿は昭和20年5月の空襲で焼失し、戦後再興した。
現在の社号標は平成3年・鳥居は平成16年再建のもの。


平成3年再建の社号標・平成16年再建の鳥居

大京神社

大京神社扁額。ちょっと鮮やか過ぎる・・・。

10時15分。
於岩稲荷から西に200メートル。大京町の鎮守として大京神社が鎮座している。社殿は南面。ちいさくて真新しい神社。集会所が併設されているようで社殿の脇には多数の自転車が止まっていた。
少々、鮮やか過ぎるきらいのある扁額が印象的。参拝時に鳥居と社殿のあいだにスダレがかかっていたのが面白い。




「多武峯内藤神社」 (新宿区内藤町鎮座)
 (とうのみねないとうじんじゃ)

御祭神:藤原鎌足公
相殿神:天児屋根命・経津主命・武甕槌命・姫大神・内藤家歴代祖霊

慶長7年(1607)、徳川家康の関東移封に従った内藤清成は現在の新宿一帯に広大な土地を拝領し、現在の新宿御苑に中屋敷を設けた。
寛永年間(1634−43)に内藤家の始祖である藤原鎌足公の分霊を大和国多武峯に鎮座する談山神社より勧請。代々の藩主と共にそれを多武峯神社として祀った。
明治5年9月に内藤家の中屋敷であった土地が新宿御苑として官有地となったために明治16年9月に神社は御苑内から現在地に遷座。
戦後、多武峯内藤神社と改称された。
都内では戦災を免れた数少ない神社のひとつ。昭和57年に本殿・幣殿・拝殿等の改修工事をおこない境内を整備した。

駿馬塚
内藤清成の駿馬伝説にかかわる石碑。
徳川家康は江戸入府後に内藤清成を呼び「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と言い、内藤清成が乗った自慢の駿馬は南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り(現在の新宿全般地域。内藤新宿とされる。)、疲れ果てて死んでしまったので大樫の下に埋めたとされている。
のちに内藤家の森林管理役となった中家休昌と木下正敷が文化13年(1816)8月に樫の古木の跡に塚をつくり、それが駿馬塚と言われている。碑は明治5年(1872)に現在地に移動された。


神馬殿

駿馬塚

「鉛筆の碑」・・・境内となりの公園にある碑
多武峯内藤神社西方付近は、明治20年(1887)に佐賀藩出身の真崎仁六が真崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し
鉛筆の製造を始めたところという。

10時25分。
大京神社からさらに西に200メートルほど歩むと内藤町の多武峯内藤神社に到着する。社殿のすぐ西側には「新宿御苑」。そこがもとの鎮座場所でもある。社殿は南面。
緑豊かな境内は多数の保存樹木が見受けられ。新宿御苑ともどもに豊かな自然に覆われている環境。
本殿はガラス張りにて保護されていたが、直射日光がまぶしすぎてすぎてガラスが反射。本殿の彫刻等をうかがうことはできなかった。しかしちょうど反射していた映り込みが桜であったので、それはそれでうれしい気分にさせられた。




「西向天神社」 (新宿区新宿鎮座)
 (にしむかいてんじんじゃ)

御祭神:菅原大神・稲荷大神・厳島大神・秋葉大神

安貞3年(1229)に梅尾高弁明恵上人が奉持していた管公自刻の尊像を当地に祀ったことにはじまる。
天正年間(1573−92)兵火にかかるが、太田道灌、神田社領を寄進し再興。

別名を「棗天神」「夢想天神」と称する。
これは徳川家光公が社殿改修の資に黄金の棗を献納したことから「棗天神」と称され、また内藤豊前守の息女、夢想によりて病気平癒するによって「夢想天神」と称されたという。

昭和20年4月13日。戦災にて本殿・神楽殿・神輿庫(旧社殿)を残して焼失。昭和21年に仮殿再建し昭和37年に社殿新築。


大正4年11月建立の鳥居。社号標は大正15年建立。

弘化3年の狛犬

大正15年建立の鳥居

西向天神社

「紅皿の墓」 西向天神社隣の大聖院境内にある
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女の墓という

大正14年再築の富士塚

大正14年再築の富士塚

11時5分。
ここからはけっこうな移動距離。多武峯内藤神社から北上すること約2.5キロほど。東新宿駅から500メートルほど東に言った場所に「西向天神社」が鎮座している。神社はちょうど高台に鎮座しており、名前のとおりに「西面」している。
境内は広くなかなかに見ごたえがある。境内地の脇にある富士塚は斜面を生かし結構な大きさ。木漏れ日の日差しも気持ちよく、少々長居をしたくなる境内。




「厳島神社」(抜弁天) (新宿区余丁町鎮座)

御祭神:市杵嶋姫命・稲荷大神

源義家公が奥州征伐の途中に大久保辺へ宿陣したおり、夢に市杵嶋姫命が現れ、手に持ち給う白羽の矢二筋と軍扇を義家公に授け賜った。
そののち戦で義家公は勝利(後三年の役・1083−87)を得て再び当地に立ち寄り社殿を建立した。

江戸六弁天のひとつ。本所・大久保・滝野川・不忍・洲崎・抜

一時は西向天神社の境外末社となっていたが、いつのころか独立。

昭和20年に戦災にて社殿焼失。戦後ただちに仮社殿にて復興。東京随一の高所にて湧水が絶え神池を新たに造営。昭和35年に神明造社殿を造営し南北に鳥居を設け現在に至る。

新宿山の手七福神(公式サイト)のひとつ。


北側の鳥居

南側の鳥居

西向天神社にて授与

11時30分。
西向天神社より北東に200メートル。職安通りに面している。それこそ抜弁天の信号がある三叉路の真ん中に鎮座している。
神社にお伺いすると、「御朱印は西向天神社にお伺いください」とあった。どうやら新宿山の手七福神で御朱印の需要があるようだ。せっかくなのでこのあとで西向天神社に再度お伺いして御朱印を貰ってくることにする。

抜弁天は名前の通りに南北に参道があり、境内が抜けられるレイアウト。開放的であれどほどよく目隠し程度に樹木が社殿を覆っているのでバランスは良い雰囲気だ。




「出世稲荷神社」 (新宿区新宿鎮座)

御祭神:宇迦魂大神

太田道灌の家臣であった粟津民部豊重がある夜に夢にて「武蔵国豊島郡江戸境は日城天府の地であり、他日繁栄限りなし。我は山城国稲荷大明神である」といいわれ夢から覚めた。後日、粟津民部豊重は太田道灌に夢の話をしたところ道灌も同じ夢を見たといい、さっそく康生元年(1455)春に土切りを催し長禄元年(1457)秋に城郭完成し太田道灌が入城する。
霊夢のお告げによって郭向の岡というところに稲荷大明神を勧請し郭内の鎮守としたことが創建由緒となる。
昔は郭向の岡に鎮座していたが、遠山左衛門尉直影が戦乱にて汚れるのを嫌い大永6年(1526)春に当地に遷座。


かつては粟津稲荷大明神・朝日稲荷と呼称。明治6年に稲荷神社と称し、そののちに出世稲荷神社と称した。
昭和20年4月14日に戦災にて社殿焼失。戦後は仮社殿にて復興。昭和45年に境内地の南半分を公園用地として新宿区に売却。その資金でもって昭和47年10月17日に現在の社殿を新築した。


11時40分。
抜弁天から東に300メートルほどいったところに鎮座。社殿は南面している。境内の南半分は公園となっており、ちょうどお母さんと男の子が遊びにきたところだった。社等前の散りかけの桜が屋根の色とマッチしていて美しい。小さいながらもバランスがとれていて気持ちよい。




「稲荷鬼王神社」 (新宿区歌舞伎町鎮座)

御祭神:宇賀能御魂命・月夜見命・大物主命・天手力男命

稲荷神社は承応2年(1653)徳川家綱の時代に当地の氏神として「正一位福嵯稲荷大明神」を勧請。

鬼王神社は鬼王権現と称し、宝暦2年(1752)に当初の百姓田中清上衛門が紀州熊野より鬼王権現を旅先での病気平癒に感謝して勧請。天保2年(1831)に稲荷社と合祀して稲荷鬼王神社となった。
紀州では鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)は現存せず、当社は「全国一社福受け」の御名がある。また鬼王という名を冠する寺社は全国で当社のみ。

境内社の三島神社(恵比寿神社)は文化年間(1804−18)に松平伊豆守邸内に出現し邸内居間に安置してあったのを後に松平祈願所の雨宝山二尊院(東大久保)に奉納。この二尊院は鬼王神社社家大久保家が別当職を兼ねていたが嘉永6年(1853)に同院が火災にあい、恵比寿神を大久保家に遷座。明治維新の神仏分離によって鬼王神社境内に更に遷座。
当社の恵比寿社は新宿山の手七福神(公式サイト)のひとつにも数えられている。

昭和20年4月13日の空襲によって全焼。昭和25年に区画整備で隣接地に遷座し昭和30年に本殿を復興。昭和40年に幣殿復興、昭和42年に社務所・宮司住居、昭和50年に恵比寿社が復興している。

「稲荷鬼王神社の天水琴」
水琴窟は小堀遠州が生み出したものとされる。つくばいの排水装置、洞水門と言われている。
稲荷鬼王神社では平成16年に雨水を利用した水琴窟・天水琴を建設。
かなり面白い趣向となっている。


サクラソウが彩る社殿前

稲荷鬼王神社本殿


鬼形の水盥台石(水鉢)
文政年間(1818−1829)の製作という
うずくまった鬼の頭の上に水鉢を載せた珍しい様式

「稲荷鬼王神社の天水琴」
社殿の屋根から落ちる雨水を大きな甕(石州甕)に溜め、
少しずつ地中の水琴窟(地中に埋められた甕)に
水音を伝えることで音を奏でる装置。
竹筒に耳を近づけると、地中からかすかな響きが伝わっている

「恵比寿神社の水琴窟」
地中に埋められた常滑焼の釜に水が伝わり音色を奏でる装置。
柄杓で水をすくい灯篭に水をかけると、
流れ落ちる水が地中の甕に伝わり不規則に響かせる装置。

境内の恵比寿神社は新宿山の手七福神のひとつ

もともと当地にあった浅間神社であるが
明治27年に稲荷鬼王神社に合祀され、
昭和5年に厄除け富士として復興。

いったん西のほうに戻る。
西向天神社に戻って御朱印を頂戴し、そうしてそのまま西へと歩く。

12時15分。出世稲荷神社より1.5キロ西。東新宿駅の200メートル西。社殿は西面している。
ちょうどちょうど境内ではさくらそう展がおこなわれており、かわいらしい「さくらそう」が社頭に鮮やかに並んでいた。
そんなに大きな神社というわけではないが、かなり見所が豊富な神社。
「稲荷鬼王神社の天水琴」と「恵比寿神社の水琴窟」という水音を楽しむための二種類の装置がとにかくお勧め。
「稲荷鬼王神社の天水琴」は一定感覚で奥深くから響いてくる地中の音色をが伝わり、「恵比寿神社の水琴窟」は柄杓でかける水の量によって音色のリズムがかわりにぎやかだったりさびしげだったりする音階が楽しめる。
録音してサイトに公開したくなるぐらいに、ぜひとも必聴の空間。
こちらでも社務所で呼び鈴をならして御朱印を頂戴する。結構気に入った神社なのだ。




「夫婦木神社」 (単立神社・新宿区大久保鎮座)
 (めおとぎじんじゃ)

御祭神:伊邪那岐大神・伊邪那美大神

創建由緒不詳。
昭和48年8月9日に宗教法人の認証を得る。結婚の神・子宝の神として崇敬をあつめている。


12時55分。
新大久保界隈で道に迷う。細い道がいくつも縦横に伸びており住宅密集地に夫婦木神社は鎮座していた。
稲荷鬼王神社から北に600メートル。新大久保駅から500メートル東にいったところ。

一瞬、タバコ屋さんかと思う間口。赤い鳥居があって社務所があることで、神社であることを把握する。
神社は建物の2階部分を利用していた。東京ならではといったところだろうか。




「皆中稲荷神社」(皆中神社) (新宿区百人町鎮座)

御祭神:宇迦御魂大神
相殿神:伊邪那岐之大神・伊邪那美之大神・諏訪大神・日本武命

天文2年(1533)に武蔵国躑躅ヶ丘(新宿区百人町2丁目)に鎮座したことに始まる。
大久保発祥以来の総社として崇敬をあつめる。

寛永年間(1624−44)に幕府が鉄砲百人組をこの地に駐屯させてより「皆中(みなあたる)の稲荷」と称され約100年に渡り「百人組出陣の儀」が奉納されてきた。幕末から明治にかけて国情騒然として出陣の儀が中止されてきたが昭和36年に復活。

昭和20年5月に戦災にあい本殿を残して焼失。昭和35年に伊勢神宮より御神材の下付をうけ社殿再興。

公式サイト http://kaichuinari-jinja.or.jp/


昭和34年9月建立の鳥居


13時10分。
新大久保駅の西側約50メートル。社殿は西面している。神社の入口は大久保通りに面しており人々の往来で雑踏としている。しかし一歩足を踏み入れれば、しずかな環境。いわゆる稲荷らしさがない佇まい。緑多く落ち着いた佇まいが心地よい。
社務所で御朱印を頂戴し、本日の神社参拝は終了。

朝9時から行動開始し、約4時間。ぶっ通しで歩いていたようだ。
午後からは用事があったので、新宿の神社参拝の続きはまた後日。




参考文献等
各神社境内の案内板等
東京都神社名鑑・上巻

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