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「郷土の鎮守様〜新宿北部の神社散歩」
<平成22年7月参拝記載>
01「
市谷亀岡八幡宮
」 (新宿区市谷八幡町鎮座・単立神社)
02「
築土神社
」 (新宿区新宿区市谷船川原町・筑土神社境外摂社)
03「
神楽坂若宮八幡神社
」 (新宿区若宮町)
04「
築土八幡神社
」 (新宿区築土八幡町)
05「
赤城神社
」 (新宿区赤城元町)
06「
岩戸稲荷神社(繁栄稲荷神社)
」(新宿区岩戸町)
07「
秋葉神社
」 (新宿区矢来町鎮座・単立神社)
08「
北野神社
」 (新宿区天神町)
09「
稲荷神社
」 (新宿区榎町)
10「
元赤城神社
」 (新宿区早稲田鶴巻)
11「
天祖神社
」 (新宿区早稲田鶴巻)
12「
池立神社
」 (新宿区喜久井町)
13「
天祖神社
」 (新宿区原町)
14「
宝禄稲荷神社
」 (新宿区原町)
15「
八兵衛稲荷神社
」 (新宿区若松町)
16「
穴八幡神社
」 (新宿区西早稲田)
17「
水稲荷神社
」 (新宿区西早稲田)
18「
天祖神社
」 (新宿区西早稲田)
19「
諏訪神社
」 (新宿区高田馬場)
新宿区の神社googleマップ
「
郷土の鎮守様〜新宿東部の神社散歩
」
「
郷土の鎮守様〜新宿西部・中野東部の神社散歩
」
「
郷土の鎮守様〜新宿北部の神社散歩
」
今回の神社散歩は新宿区。新宿の未参拝神社を全部まわる予定。
だいたい普段の私のキャパでは10社も参拝してしまうと飽和気味になってしまうのだが結果として19社を駆け足で参拝してしまった。
「市谷亀岡八幡宮」
<郷社・新宿区市谷八幡町鎮座・単立神社>
(いちがやかめおかはちまんぐう)
御祭神:
誉田別命(第十五代応神天皇)
気長足姫尊(神功皇后・・応神天皇母)
与登比売神(応神天皇姫)
由緒
空海が関東下向時に「茶木稲荷神社」(現在は石段左に鎮座)を鎮座させたのが当地の信仰の始まり。この「稲嶺山」と呼称されていた地に、太田道灌が文明11年(1479)に鶴岡八幡から江戸城鎮護神として分霊勧進し、鶴岡に対して亀岡として祀ったことにはじまる。
明治五年、郷社列格。昭和20年5月25日に空襲によって全焼。昭和三七年に社殿再建。
前回掲載ページ
公式サイト http://www.ichigayahachiman.or.jp/
市谷亀岡八幡宮
市谷亀岡八幡宮
文化元年(1804)建立の銅製明神型鳥居
「八幡宮」の額は播磨姫路15万石の酒井家11代当主忠道の書
八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成
市谷亀岡八幡宮参道
昭和55年製の狛犬 ちょっとノボーッとしている感じ。
昭和55年製の狛犬
市谷亀岡八幡宮
市谷亀岡八幡宮
摂社・茶ノ木稲荷神社
摂社・茶ノ木稲荷神社
11時。本日最初の神社は「市谷亀岡八幡宮」から。
この神社をおとづれるのは実は2回目。もう6年も前だったりすると記憶も怪しく、逆に新鮮な気持ちで参拝できた。
参道脇、足元近くに愛くるしい狛犬があった。台座を見ると昭和55年。新し目ではあるが、憎めない顔つき。
高台に鎮座しており、社殿は南面している。丘の中腹には「茶木稲荷神社」。社地の西側には「自衛隊市ヶ谷駐屯地」。そういう意味でも静かな環境の中に鎮座している神社であった。
まずはここから。外堀通りを北上していく。
「
築土神社
」
<千代田区の
筑土神社
境外摂社・新宿区市谷船川原町>
(つくど神社)
御祭神:平将門公
船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現在のJR飯田橋駅)付近へ移転。
さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した。
ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。
他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。
そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。
<
筑土神社公式サイト
より>
幣サイト内の
筑土神社紹介ページ
外堀通りを歩いていくと、左手に小さな社殿があった。筑土神社。千代田区の同名社の分社らしい。氏子地域が分散してしまったがゆえらしい。社頭にある看板は神社とはあまり関係のない話題。
すなわち史跡「堀兼の井」の解説。
堀兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水がでないために苦労して掘った井戸という意味。
この市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると後妻は息子をひどくいじめ、男も一緒に息子をいじめるようになってしまった。そしていたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ずとうとう力尽きて死んでしまったという。
井戸は昭和20年まで伝承されていたが、戦争にて焼失。今は残っていない。
「
神楽坂若宮八幡神社
」
<新宿区若宮町>
御祭神:仁徳天皇・応神天皇
文治5年(1189)に源頼朝公、奥州藤原氏征伐に際してこの地に宿願、奥州平定後に鎌倉若宮八幡を移し崇敬したことに始まる。
文明年間(1469−87)太田道灌が江戸城鎮護のため当社を再興し社殿を江戸城に相対させた。
昭和20年5月の戦災にて社殿焼失。昭和34年再建。平成11年社殿新築。
現在の氏子地域は若宮町と神楽坂1丁目〜3丁目。
11時40分。若宮町の「神楽坂若宮八幡神社」に到着。社殿は南面している。JR飯田橋駅からは約400メートル南西に鎮座。
最近、建て直しをしたような新めの社殿。二階部分に社殿が建立され、一階部分は駐車場。社務所は隣のマンションの一階部分。都市型合理的な空間であった。ご祭礼のポスターがちょうど張ってあったが催し物を子供に親しめるような内容でイラスト化され町内会で作ったようだ。親しみのわく心遣い。
「築土八幡神社」
<新宿区築土八幡町>
御祭神:応神天皇・神功皇后・仲哀天皇
嵯峨天皇(786−842)の御代に武蔵国豊島郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。
あるとき翁の夢の中に神霊が現れて「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」といわれたので翁は不思議に思って目を覚まし身を清めて拝もうと井戸のそばに行ったところ、かたわらの一本松の木の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいていて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れた松に注連縄をまわし松を祀った。
そののちに伝教大師がこの地を訪れ、由来を聞いて神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土を求めて礎としたので筑土八幡神社と命名。
文明年間(1469−87)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が当地を産土神・江戸鎮護の神として崇敬。
昭和20年の戦災で社殿焼失。昭和38年に再建。
氏子地域は筑戸八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂4〜5丁目・白銀町・袋町・岩戸町。
境内の宮比神社は御祭神は宮比神(大宮売神・天鈿女命)。古くから宮比町1番地の旗本屋敷にあったものを明治40年に現在地に遷座。
現在の社殿は昭和20年の戦災で焼失後に昭和37年に再建したものである。
境内社の宮比神社
神輿庫に納まる神輿。
延宝6年(1678)製作とされ昭和48年まで使用されてきた
11時50分。筑土八幡神社に到着。ちょっとした高台に鎮座している。社殿は南東。
飯田橋駅から大久保通りを北西に約400メートル、筑土八幡町の交差点に面している。
参道途中の斜面には小さな公園。樹木が多く気持ち落ち着く空間。境内ではご婦人が読書をなされていた。
「赤城神社」
<牛込赤城神社・牛込総鎮守・旧郷社・新宿区赤城元町>
御祭神:岩筒雄命
正安2年(1300)の創建。群馬赤城山麓の豪族大胡氏が牛込に移住の際、本国鎮守であった赤城神社を分霊。最初は
牛込の早稲田鶴巻
に鎮座する元赤城神社の地に鎮祭。
寛正元年(1460)に太田道灌が牛込台に遷座。その後に弘治元年(1555)に大胡宮内少輔(牛込氏)によって現在地に遷座。
天保13年(1842)の大火により社殿焼失。翌年再建着手するも安政大地震等でようやくに慶応元年(1865)に復興。荘厳華麗を極めたがしかし昭和20年の戦災によって焼失。
昭和34年に再建。あらためて平成22年に社殿新築、境内再整備を完了・
公式サイト http://www.akagi-jinja.jp/
平成22年、境内一新。 牛込赤城神社
参道。神楽殿が浮いています。
参道
これもまた新しいデザインの狛犬
あまり見かけない風貌ですね
赤城神社拝殿
神楽殿は宙に浮いたような雰囲気。
建物の下は吹き抜けの通路となっています。
赤城神社本殿
赤城神社本殿
12時10分。
早稲田通りを神楽坂方面に歩めば。赤城神社に到着。
訪れたときが8/29。ちょうど1週間前の8/22に仮殿から本殿に遷座がおこなわれたらしい。境内はまだ整備中であれど真新しい御社殿が清清しい空間を演出していた。9月17日からが例大祭となっていたので、最後の追い込みといったところか。
近代的な様相を醸し出しつつ境内の木々の配置に苦慮が感じ取れる。社務所は隣のマンションと同居しており、このあたりも都会の神社ならではといったあんばい。
「岩戸稲荷神社(繁栄稲荷神社)」
<新宿区岩戸町>
御祭神:宇迦魂大神
明治23年、深川六間堀から移して奉祭。昭和20年戦災により社殿焼失。
昭和34年、伏見稲荷神社より御神体をいただき、昭和41年も現在の社殿が落成。
12時30分。
早稲田通りから大窪通りに南下して岩戸町へ。牛込神楽坂の駅の近くに鎮座しているのが岩戸稲荷神社。
斜面の途中に道に沿って鎮座している小さな稲荷様であった。道の奥には法正寺が鎮座。守護神ともいえそうだ。
「秋葉神社」
<新宿区矢来町鎮座・単立神社>
御祭神:火之迦具土大神
由緒由来不明。平成5年に社殿新築。
12時40分。岩戸稲荷神社より約400メートルほど西へ。矢来町の南のほうに鎮座しているのが秋葉神社。神楽坂駅と牛込神楽坂駅の三角地点に鎮座といった感じ。新潮社とアディダスジャパン社が近くにある。社殿は東面。入口は北側ゆえの窮屈さがあった。
鳥居から通りをみると、ちょうどアディダスジャパン社があり、サッカー日本代表ユニフォームカラーが目立っていた。
「北野神社」
<赤城神社境外社・新宿区天神町>
御祭神:菅原道真公
創建年代は不詳。往古より天神町の天神様として崇敬されてきた。
境内には稲荷社もあり、嘉永年間(1848−54)のころは稲荷社の信仰が高まり古絵図にも稲荷社と記載が残っている。
昭和20年5月の戦災にて社殿焼失。そののちに再建している。
北野神社と稲荷神社が並ぶ境内
北野神社
北野神社本殿
12時50分。北野神社へ。早稲田通りの牛込天神町交差点から北上すれば天神町。北野神社は東面している。目立っているのは豊玉稲荷社の赤い幟。空間は広いが、境内というよりかは道路の延長線のようであまり区分けが感じられない空間。ベンチがあって自販機も近くにあるので、ついつい休憩。
「稲荷神社」
<赤城神社境外社・新宿区榎町>
御祭神:倉稲魂命
当社の創建は元和初年頃(1615−25)に別当南蔵院の開山正胤法印の勧請と伝承。赤城神を合祀し両社稲荷と称し庶民の崇敬が篤かった。
明治2年3月までは真言宗南蔵院持ちの神社であったが、神仏混淆廃止により赤城神社付属社となり明治6年に稲荷神社と改称した。
昭和20年の空襲により社殿焼失、そののちに再建。
鳥居は昭和37年造。
13時10分。
最初、地図で調べていたときは所在不明瞭な神社だった。このあたりかなとヤマをはったらどんぴしゃりで鎮座していたので助かった。
早稲田通りから奥に入った榎町に北向きに鎮座。隣は宗柏寺という大きなお寺。
小さな道路の角地に小さく鎮座していた稲荷。どうやら最近立て直したらしく手元の資料では昔の社殿で掲載をされていた。
「元赤城神社」
<赤城神社境外社・新宿区早稲田鶴巻>
御祭神:岩筒雄命
赤城神社の創建時の鎮座地。正安2年(1290)創建とされる。その後、寛正元年(1460に太田持資が牛込台に遷座。里人は跡地に小祠を建て元赤城大明神として崇敬してきた。
明治初年に元赤城神社と改称。昭和20年5月25日に戦災焼失。昭和25年に仮殿再建。
昭和52年に東京都の区画整備事業により現在地に換地処分となり境内地は縮小。昭和53年に社殿新築竣工している。
石鳥居は大正15年造。
こちらから見ると、社殿は建物の影に隠れてしまう。
昭和20年5月の空襲で顔面が猛火で剥がれ落ちるも
身を持って我が子を護って来た姿を伝える狛犬。
さっきから早稲田通りを軸に行ったり来たりを繰り返しつつ少しづつ西へと歩みを進めている。
13時20分。早稲田通りと外苑東通りが交差する道で外苑東通りに北上。早稲田鶴巻町に鎮座しているのが元赤城神社。
先ほど参拝した牛込の赤城神社
の元宮とされている。
社殿は東面。それこそ現在の牛込赤城神社の方向を向いて鎮座している。敷地の一隅にこじんまりと鎮座しており、言われなければ気がつきにくく、ましてや牛込赤城神社の元宮というのも気にしなければわからないだろう。
「天祖神社」
<赤城神社境外社・無格社・新宿区早稲田鶴巻>
御祭神:天照皇大神
創建年代は不詳。古くから早稲田村の鎮守として神明宮の記載が残る。
もともとは新宿区榎町界隈に鎮座していたが、天和年間(1681−4)に現在地に遷座。
当時はこのあたり一帯が「茗荷畑」であったことから「茗荷畑の神明宮」として里人から崇敬されてきた。
明治期に天祖神社として赤城神社付属の無格社。昭和27年に「天祖神社」として宗教法人となる。
昭和20年5月25日の空襲で社殿焼失。昭和42年3月に本殿神明造を再建。昭和52年に拝殿建立。昭和57年に境内建造物再整備完了。
石鳥居は昭和51年造。
天祖神社拝殿
天祖神社本殿
昭和51年造の狛犬
ちょっとユーモラスな顔立ち。
13時30分。元赤城神社から約500メートルほど南西へ。早稲田駅の北側約150メートルの地鎮座しているのが天祖神社。
社殿は南東を向いている。境内は細長く社地の後方には早稲田大学や早稲田高校の敷地が多く、早稲田鶴巻町の西端といったところ。すぐ隣は早稲田町だったり戸塚町だったりする。
社殿は神明造。天祖神社ゆえの気配。対の狛犬がなかなかにユーモラスな表情をしている。目がくっきりと開いているのはいわゆるアニメ顔とでもいうのであろうか。
「池立神社」
<新宿区喜久井町>
御祭神:池立大神
江戸時代、三河藩松平家邸内に鎮祭してあったが明治にいたり明治に至り境内を添えて喜久井町に譲渡された。昭和20年に戦災にて焼失。
戦後仮殿で奉斎、昭和41年に社殿・社務所再建。
石鳥居は昭和55年9月造
物置スペース?
13時45分。
早稲田通りを南に。喜久井町信号のすぐ北側の住宅地に鎮座。最初は「?」。よく見たらガレージのような空間に神社があった。隣の社務所兼集会所のほうが圧倒的に大きい。帰宅後に資料を見てみたら戦後昭和41年以降はこの状態で祀られていたようだ。
ガレージの門扉は閉まっていて参拝できないし、空間は物置スペースになっているし、さすがにこれはあんまりな状況。
もっともあまり気にする人もいないのだろうけども。
「
天祖神社
」
<新宿区原町>
御祭神:天照皇大神
慶長年間(1596−1615)に諸国で神踊りが流行し特に牛込でも盛んであった。里人の長兵衛は信仰心が篤く五晩続けて神明の神がこの里に現れて諸人の苦難を救ってくれるという夢を見た。
この話を聞いた大橋龍慶という長者が自分の土地に祠を建て神明の神を祀ったことにはじまる。
明治6年神明宮を改めて天祖神社と改名。
昭和20年の戦災で社殿焼失。そののちに再建。
原町1丁目の鎮守。
境内には桃の神を祀った桃祖神社がある。
天祖神社
天祖神社本殿
御神水
桃祖神社
13時55分。
池立神社から西に進めば穴八幡宮ではあれど、ここからいったん方向転換をする。
南東の道をすすみ、外苑東通りに戻るように歩けば市谷柳町交差点の近くに天祖神社が鎮座している。
なぜ故にか門が非常に立派。町の小さな神社には不似合いな景観。門の前には赤かったり青かったりして幟も賑やか。かといって境内に足を踏み入れれば手水舎に社殿が二つというこじんまりとした空間が広がるのみ。結構アンバランスな景観だった。
「
宝禄稲荷神社
」
<穴八幡神社末社・新宿区原町>
御祭神:稲荷大神
永禄年間(1751−64)に当地に居住した飯塚氏により創始と伝承。
穴八幡神社の末社。
当時、このあたりにくじ運の強い百姓がいたという。以下、伝承が続く。
この百姓はくじ運が最初から強かったわけではなく、いつも富くじで外し、嫁さんに怒られていた。
阿附利、嫁さんのへそくりを見つけ、富くじを階に行くもいつもの通りに外してしまった。思い足取りで帰路の途中、牛込を超えたところに祠があり百章はそこで一休み。
外れたくじが嫁さんに見つかったら怒られるのは確実なため祠の前にはずれくじを置き、百姓は嫁さんを楽にさせてやりたいと祈願。
それから数ヶ月たって。
百姓は富くじを買ったところ、今度は一番くじを見事に獲得。その後もうまくいき、一家は幸せになった。
百姓は例の祠のおかげに違いないということで立派な社殿を立て、そうして噂が広まりいつのころからは「宝禄稲荷」と呼ばれ、故事に倣うようにはずれくじを置いて拝むようになったという。
元治2年に作られた勝運が授かれると伝承される「宝禄狐」に直接触れるのは5月22日の「宝禄祭」のみ。この日は穴八幡宮の神職によって「はずれくじ供養」も行われる。
また縁起の良い「宝禄勝運札」は元旦朝・5/22の宝禄祭・9月例大祭のみとのこと。
昭和11年建立の石鳥居
宝禄稲荷神社
昭和19年7月建立の狐様
昭和19年7月建立の狐様
掲示してある「宝くじの願の掛け方」
屋根瓦の上に狐様
14時5分。今度は大久保通りに戻ってきた。牛込柳町駅から西に約300メートル。社殿は大久保通りに面して南面している。
社頭にはキリリとした顔つきの狐様。屋根瓦の上にも狐様。
寶禄稲荷神社というだけあって、社名の通りに宝くじ系に御利益があるらしい神社。
「
八兵衛稲荷神社
」
<新宿区若松町>
御祭神:倉稲魂命
江戸時代中期、当地に八兵衛という人が住んでいた。
ある日、自分の過失から火事を出してしまい八兵衛は近隣に迷惑を掛けたことを悔い毎日夜な夜な町内を「火の用心」「火の用心」と廻って歩いた。そのために若松町には大きな火事がなくなったといわれている。
八兵衛の死後、町内の有志が稲荷神社を建立。このことを漏れ聞いた町奉行は将軍家に奏上し、正一位の位を与えて八兵衛を称えたという。
昭和2年に社殿改築するも戦災にてさすがに全焼。昭和27年に現在の社殿完成。
14時15分。
大久保通りをさらに西に歩む。若松町交差点の近く。住宅地の中にひっそりと鎮座していた。社殿は北面。
火事に悩まされていた江戸の住人が火防を願い八兵衛さんの功績にちなんで建立というのが、まさに江戸らしい創建由来であった。
「
穴八幡神社
」
<新宿区西早稲田鎮座・村社>
御祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
康平5年(1062)源義家公がこのところに兜と太刀を埋め、氏神八幡宮を創祀。東北の鎮護とした。
慶安2年(1649)三大将軍家光再興、将軍家の祈願所として江戸屈指の大社となる。
社殿は元禄造営(1688−1704)時に江戸の権現造社殿としては日枝・根津に並んで最大級であったが安政の青山火事(1659)にて全焼。
明治初年に再建されるも明治末に焼失。昭和初年に再建するも先の戦災にて焼失。昭和37年(1962)御鎮座900年際にあたり鉄筋コンクリートの本殿落成。
高田馬場の流鏑馬は享保13年(1728)に徳川吉宗が世継の病気平癒祈願のために穴八幡に奉納した流鏑馬を起源としている。
以後、将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納されてきた。
明治維新後は中断されていたが昭和9年に皇太子(現 天皇陛下)の誕生祝いの為に再興。昭和39年に流鏑馬の古式を保存するために水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内で毎年10月10日に公開されている。
高田馬場の流鏑馬像
穴八幡宮
ちょっとユーモラスな狛犬・吽像
対の狛犬・阿像
穴八幡宮・御朱印「一陽来復」
14時35分。
大久保通りから、国立戸山病院と戸山公園の脇を北上して早稲田通りに戻る。
早稲田大学に囲まれる一角に鎮座しているのが穴八幡宮。早稲田の町を見下ろすように高台に南東を向いて鎮座している。
この界隈では大きな神社。さらに今では冬至の「一陽来復」でも有名な神社。
神門・社殿も堂々たる風格をもっており、この立派さが逆に意外に感じてしまうほど驚きを感じる。こんなに大きな神社であることを知らず、いままで参拝には訪れていなかったが、そうと知っていればもっと早い段階で来ておくべきだったかもしれない。
社務所は拝殿の左側。せっかくなのでご朱印を頂戴する。一陽来復を豪快に筆で描いたご朱印はなかなかの迫力。これはもっと評価されても良いかと思う。
「
水稲荷神社
」
<新宿区西早稲田>
御祭神:倉稲魂大神・大宮女大神・佐田彦大神
天慶4年(941)鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)朝臣が旧社地(現在鎮座地の南約300メートル)の富塚の上に稲荷社を勧請されたことに始まる。はじめは「富塚稲荷」「将軍稲荷」と呼称。
文亀元年(1501)川越管領上杉冶部少輔朝良朝臣が夢に老翁見た伝承が残っている。
老翁は「我此所を守護し民をして太平の化を蒙らしめ所を繁栄ならしめんとす汝必ず民を虐ぐる事勿れ」といわれたので上杉朝良は「翁は如何なる人にましますぞ」と問えば「天の戸を開きて江戸に稲荷なる富塚の里にいくよへにけり」とこたえて夢が覚めた。
上杉朝良は家臣ををして江戸戸塚のあたりを探させたところ、戸塚音信山に稲荷の古社がありその傍らの古塚に白狐が年久しく住んでいることがわかった。朝良はただちに社殿を造営して戸塚一円を社領としたという。
天文19年(1550)牛込主繕正時国が社殿造営、天和2年(1682)に佐藤駿河守信次が社殿造営。
元禄15年(1702)4月、神主の夢想により大椋の下に霊水が湧出、江戸市中眼病を患うものが多く困難していたが、この霊水によって治った者がたくさんあった。またその節のご神託に「我を信仰する者には火難をまぬかれむべし」とあり、このことから「水稲荷」として消防関係者・水商売関係者の多くの崇敬を集めた。
天明8年(1788)京都皇居火災の際にしきりに防火につとめた老翁があり、遂に天皇の目にとまり名を問われたときに「江戸の水稲荷」と奉答して姿を消した。このときの恩賞に「関東稲荷総領職」を賜ったとも伝承されている。
昭和20年5月の戦災によって社殿焼失。御神木大椋も焼け霊水も止ってしまった。
ただし氏子の大部分は戦災をまぬがれ再建に着手。翌年末に再建したのは都内戦災神社復興の第一番であったとされている。
昭和38年、現在地に遷座。ちょうど社殿造営計画を検討していたところ早稲田大学より甘泉園(徳川御三卿の清水徳川家旧蹟)の一部の土地(3462坪)提供と社殿奉納をするからと旧社地(2060坪)を譲り受けたいという申し出があり、これを決定し現在に至る。
境内・高木神社
早稲田大学合格祈願として
本社・高木社・北野社の三社参拝が案内されている。
境内・北野神社
高木社・北野社とも早稲田創設者の大隈重信が日参していたという。
戸塚の語源となった「富塚古墳」
多くの稲荷社の祠がある。
15時10分。
早稲田通りと新目白通りの中間。戸塚第一小学校の北側に鎮座しているのが水稲荷神社。表には「日本稲荷古社の随一」ともあり、その歴史の古さがうかがえる。
都内の稲荷社として結構な歴史を誇っており天慶4年(941)鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)のころまでさかのぼることができる。
現在の社地は、戦後に早稲田大学と交換をして作られたものであるが、社殿後方には富塚古墳を控え、堂々たる佇まいであった。
「
天祖神社
」
<新宿区西早稲田>
御祭神:天照皇大神
豊臣家の遺臣であった小泉源兵衛が大阪の夏の陣にて敗退したのちこの地に隠れ住み、荒地を拓き伊勢の内宮外宮に参籠して霊感を受け正保2年(1645)に神社を創建したとされる。
創建当初は「神明宮」「神明神社」と称していたが、明治3年(1870)に天祖神社と改称。
昭和63年に社殿修復が行われている。
旧戸塚2丁目の氏神。
15時30分。水稲荷神社から北西に約200メートルで、天祖神社へ。都電荒川線面白橋駅の南西に位置している。
社殿は南面。周辺は住宅地であり閑静な佇まい。イチョウの木がほどよい木陰を演出してくれた。
ちょうど夏祭りのタイミングだったのだろうか。境内には提灯が張りまわされており、人の気配はしないけれども、賑やかな空間となっていた。
「
諏訪神社
」
<新宿区高田馬場>
御祭神:大国主命・事代主命・武御名方命
創建は弘仁年間(810−24)小野篁朝臣が大国主命・事代主命を祭祀したことにはじまる。当時は松原神社と呼称。
文治5年(1189)に源頼朝公が藤原泰衡公討伐のため当社に祈願あり。凱旋後に社殿造営。
応仁3年(1469)に太田持資が社殿再建したが元亀年間(1570−73)に北条早雲のために焼失。
江戸時代初期に徳川義直公が信濃諏訪神社を勧請合祀し諏訪神社と改称。後水尾天皇が御神体を奉納されたという。
明治15年、近衛射的場開場式にあたり 明治天皇の御幸あり当地にて天覧なされており、のちに御聖蹟の指定を受ける。
昭和50年に社務所、55年に本殿、58年には大鳥居ほかの境内施設の再整備を完了。
諏訪神社
諏訪神社神輿庫は校倉造
諏訪神社本殿
夫婦楠(相生楠)
16時。閉門した諏訪神社。
明治天皇射的砲術天覧所址
15時50分。
諏訪神社。西早稲田駅・諏訪町交差点のすぐ近く。訪れてみていきなりあわてる。というのも閉門が16時と記載されていたため。残りが10分しかないし。そんなわけで駆け足参拝。都内の普通の規模の神社で門限があるのはさすがに想定していなかった。
境内には校倉造の神輿庫がある。コンクリートで完全な校倉を再現した倉庫というのも全国的には珍しいらしい。
11時スタートで締めは16時。5時間で新宿北部を横断して19社を結果として参拝。
さすがに一日の行動としては密度が高すぎで足早になってしまった気がする。
これにて新宿区の神社庁所管神社も全参拝完了。
「
郷土の鎮守様〜新宿東部の神社散歩
」
「
郷土の鎮守様〜新宿西部・中野東部の神社散歩
」
「
郷土の鎮守様〜新宿北部の神社散歩
」
にてそれぞれ掲載。
参考文献等
各神社境内の案内板等
東京都神社名鑑
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