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「神のやしろを想う・諏訪大社後篇」


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目次(後篇)
上諏訪
手長神社」(諏訪大社上社境外摂社・県社)
八剣神社」(諏訪大社上社境外摂社・県社)
高島城趾」(松平忠輝公・諏訪護国神社・永田鉄山陸軍中将等)
上社本宮」(国重文)
上社前宮」(国重文・神殿跡)


「上諏訪」
 JR上諏訪駅には温泉がある。それもホームに温泉がある。わざわざホームの温泉に浸かるのは「電車好き」のたぐい。普通は、駅をでて温泉を探すだろう。今の私には温泉は関係ない。さしあたって「上社」に行くバスを確認するだけである。
 あいかわらず上社の行き方はわからない。例の如く、観光案内所で地図を戴いてなんやかんやと訊ねる。噂の「かりんちゃんバス」とやらは諏訪市が運行しているバス。一律200円で市内を巡回しているらしい。ただ、私はすぐには上社に行くつもりはない。折角、諏訪にいるのだからしばらく街歩きをしたいと思う。

上諏訪駅ホームの温泉
上諏訪駅ホームの温泉
上諏訪駅付近のJR中央本線(高島城趾に行く途中で撮影/笑)
上諏訪駅付近のJR中央本線
(高島城趾に行く途中で撮影/笑)
おまけ・小渕沢駅のJR中央本線と小海線
おまけ・小渕沢駅のJR中央本線と小海線



「手長神社」(諏訪大社上社境外摂社・県社)
御祭神・手摩乳命(テナヅチ命・スサノヲ神の妻であるクシイナダヒメ神の親神・詳細

 古くは手長宮・手長大明神と呼称されていた。もともとは近隣の産土神であり、近世には高島城の丑寅(うしとら)の方角(北東)に位置するため諏訪藩家中の総鎮守として崇敬をあつめた。
 7年(寅年・申年)ごとの式年御柱祭は諏訪大社に継ぐ規模といわれ、夜間に4本の御柱を氏子達が230段の石段をひきあげるという。
 社殿は天明2年(1782)建立、拝殿は同8年(1788)建立。また旧本殿は宝永6年(1709)建立という。
 なお、桑原城趾付近(諏訪市)には「足長神社」(諏訪大社上社境外末社・村社)という神社もあり、手長神社分祭以前は手長神も祭っていた。

 駅前を延びる甲州街道(国道20号)を横断する。駅前を東に歩くこと徒歩10分。郵便局の隣に鳥居があり石段が連なる。諏訪の市街地を見おろす高台にある神社。誰もいないし、誰も関心をもたないようなこんな神社にも私は参拝したりする。諏訪大社境外摂社といえども県社。それなりの格はある。諏訪湖を見おろす境内は街の中ではあるけど、山の中であるような気がする。逆に言うと、諏訪の盆地はあいかわらず狭く、このような高台がすぐのところまで迫っている。
 ここで時間を消費するわけにも行かないので、つぎの目的地に向かう。一度甲州街道まで戻る。このあとどう歩いたかは定かではない。いつものように怪しげな感覚と感性で歩く。不思議なことに、いつもこうして目的地に着いてしまうのだから、ある意味では才能なのかもしれない。

手長神社
手長神社
手長神社社殿
手長神社
手長神社旧本殿(1709年)
手長神社旧本殿(1709年)



「八剣神社」(八剱神社・諏訪大社上社境外摂社・県社)
御祭神・八千矛神(やちほこ神・詳細
配祀神・日本武尊・誉田別尊(応神天皇)

 古くから諏訪湖南部の高島の地に鎮座し諏訪大社に準じる神事を行うと共に、諏訪湖の御神渡(おみわたり)拝観という特殊神事も司ってきた神社。
 諏訪湖には御神渡(おみわたり)という現象がある。毎年、厳冬の頃に諏訪湖は全面氷結する。その寒さが4、5日続き、氷の厚さが10センチ前後になる日の明け方、突然「ゴオーッ」という大音響と共に、湖面の南北に幅50−60センチほどの亀裂ができ、割れた氷の破片が氷脈となって盛り上がり、蛇行しつつ湖面を貫く。この現象が御神渡とされ、上社の健御名方神が下社の八坂刀売神のもとに通われた道筋であろうと平安のころからすでに伝承されてきた。中世以降、氷脈の方向等で吉兆(農作物や気候等)を占うようになり、諏訪大社を通じて幕府に報告(最も古いのは応永四年・1397年11月)されてきた。この拝観記録は現在も八剣神社によって続けられており、上社に報告されている。天正十八年(1590)に高島城築城のために現在地に遷座。上諏訪駅から南東徒歩10分。

 神社自体は普通に村の鎮守様。この雰囲気では県社とは思えない印象だがそれでもこの神社が司ってきた役割を考えれば、この格の高さも納得できる。いづれにせよ、つぎの目的地に向かう。

八剣神社
八剣神社
八剣神社社殿
八剣神社



「高島城趾」(松平忠輝公・諏訪護国神社・永田鉄山等)
 諏訪といったら何を思い出すだろう。まずは諏訪大社であろうことは間違いない。あとは湖に温泉ぐらいだろう。多少歴史好きなら武田勝頼や八重垣姫、諏訪御前等々を思うのかもしれない。ただ私は「松平忠輝」という人物のことを考えていた。越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男、越後少将松平上総介忠輝、そして舅は伊達政宗。これほどの人物が配流されていた地が諏訪であった。元和2年(1616)に改易され配流。伊勢朝熊(鳥羽藩)で2年、飛騨高山(高山藩)で8年、そして寛永3年(1626)に諏訪に移された。25歳で改易され、35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年の余生を諏訪でおくり天和3年(1683)7月3日に諏訪高島城南の丸で92歳の生涯を終えた。五代将軍徳川綱吉の時代であった。信じられないぐらいの配流生活を送り、恐るべき長寿であった人物。この流人は諏訪藩にとってとんでもないお荷物であったに違いない。藩主諏訪氏よりも位階が高く、さらには東照大権現の嫡子。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。
 高島城とは何も関係ないかもしれない。ただ私は諏訪に来て「松平忠輝」が頭の四隅にずっと残っていた。いままでは全く何も感じなかったが、高島城南の丸跡とされる小学校の付近を歩きながら思う。この南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。
 歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。私は松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。そんな人物は信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。
 松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。ただ、神社は感覚的に場所がわかるのに寺院になると感覚が鈍り場所がわからない。貞松院に行きたいのはやまやまだったが、諏訪大社四宮の参拝を一次目標としていた理由もあり、時間的余裕もぎりぎりであったので今回は訪問しなかった。このままでは、どうにも悔しいのでいつか訪問したいと思う。

 高島城には関係ない事を思いながら、私は高島城のあった城址公園に入る。昔は諏訪の湖畔にあり、諏訪湖の上に浮いたようにみえたという天守は、諏訪湖が干拓されたあとは内陸地となり、復元天守は水堀に浮いたように異彩を放っていた。城址公園は市民の憩いの空間となっているようで、のびやかなる日差しがさし込み、まどろみたくなってくる。何組みもの親子連れがくつろいでいる中で、私は散策を行う。城跡公園はは程良い広さで、こじんまりとまとまっている。そんな中に気になる空間もある。天守が勿論一番気になるが、先に鳥居の有るところに行こうと思う。それは「諏訪護国神社」であった。得てして城跡には護国神社が多い。とはいうものの、一国をなしていない諏訪という地域(古代には諏訪国があった)でも護国神社があるのが不思議だった。更に城跡公園内で異彩を放っているのが護国神社拝殿前に鎮座している胸像。どうにも私ですら近寄りたくないオーラを放っている胸像はあからさまに「陸軍軍服」を着用していた。像には「永田鉄山中将像」と彫られている。普通はこんな誰だか分らない軍人さんの石像に近寄る阿房は居ないのだが、私は専門的に永田鉄山の生き様を知っている。ゆえに、ここで出逢ったのも何かの縁かもしれない。本心をいうと陸軍軍人には会いたくはないのだが。

 永田鉄山。明治17年11月14日に上諏訪で生まれ、高島尋常小学校を卒業。ゆえに高島の地に記念の像があってもおかしくはない。あいにく私は陸軍には詳しくない上に「皇道派・統制派」云々は存じていない。
 「永田鉄山は陸士十六期生の俊秀で、将来の陸軍を背負って立つべき人物として全軍の注目を浴びていた。(略)彼の抱懐せる理想は、日本をしていかなる侵略にも対抗し得るような、確固たる国防国家の基礎を固めねばならぬというにあった。皇道派が主張するような急激な改革は極力排斥し、財閥の弊害も漸次これを修正してゆけば可なりとしていた。(略)皇道派青年将校のクーデター重視論のごときは最も彼の嫌悪すべき事柄であった。従って彼は全陸軍を一糸乱れざる統制下におき、下克上の悪習を一掃せんとした。」とは田中隆吉陸軍少将(『日本軍閥暗闘史』65頁)の弁ではある。いずれにせよ永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。致命的ダメージをうけた皇道派青年将校達はことある事に永田少将と対立。昭和10年8月12日、陸軍省軍務局長室に訪ねてきた相沢三郎中佐が「天誅!」と叫びつけ永田少将を軍刀で斬りつけ、慌てて逃げる永田少将を追いつめ軍刀を突き刺し絶命させ、そのまま逃亡。相沢中佐はその日には逮捕されたが、この「永田局長暗殺事件」は全陸軍に衝撃と不安を与えた。その後、2・26事件を経て、東条、武藤等の統制派が皇道派を掃討し牛耳ったのは知っての通りではある。
 結局、永田個人のイメージは湧いてこない。ただ「暗殺事件」を思い起こし、陸軍の体質を如実に感じるだけであった。近代史専攻の私(專門は海軍)も「陸軍軍閥」の深部はわからない。この時代の陸軍をいわるる「普通の人」が知ろうと思っても無理があるだろう。とにかく「陸軍」のことは忘れて城に入ろうかと思う。

 上諏訪駅前の観光案内所で貰った割引券を使用し130円で入場(入城)する。本来は150円であるが、少しでも得をするのはやはりうれしい。城内はいたってシンプル。高島藩にまつわるものが展示してある。なかに入ると外から見た以上に小さい。こんな小城でも諏訪の水に護られ「浮城」と呼称された高島城はかなりの堅城であったことは容易に推測できる。
 高島城は天正18年(1590)に諏訪に移転してきた秀吉の武将であっった日根野高吉によって計画され、これまで鎮座していた八剣神社(前述)を移転させて、文禄元年(1592)に着工。慶長3年(1598)に完成した城。典型的な水城で、小さいながらも難攻不落の構えであった。高島藩は日根野高吉の後に旧領主の諏訪氏が復帰し、以後明治まで10代270年3万石を保った。天守は明治8年(1875)に撤去されたが、昭和45年(1970)に現在の形に復興した。
 天守の中にいるのは私一人。いつものように誰もいない。どうしてだか私のいくところは大抵人が居ない。このほうが静かで大いに結構なのではあるが。城自体は格別面白いものではない。ただ三層の小振りな天守の上から諏訪の風をあびつつ湖を眺める。対岸まではっきりとみえる。今の感性では小さな湖にみえるが、古来の印象ではかなり大きな内海であったろうと思うし、事実この城まで水際が迫っていたという。ただ、現在の天守から諏訪湖を見てもなんらおもしろくなく、規則正しい埋立型の街に飛び出たマンションやホテルが林立しているだけ。むしろ反対側の山を見ていた方が気分がいい。ただいづれにせよ天守閣の見晴台でひとり佇むのはかなりもの悲しい。そろそろ上社に行こうかと思う。

 例の「かりんちゃんバス」とやらに乗り込む。上手い具合に時間調整をし諏訪市循環バスに乗ったのが13時14分。このバスは上社まで40分もかけて走るが、料金は200円。実際に普通のバスに乗ると20分で着くというが、この「かりんちゃん」は経由が多いために倍の時間。しかし料金は圧倒的に安い。しかし私的には速さよりも安さということでバスに乗る。

高島城趾
高島城趾
天守から茅野方面を望む(左山中腹が桑原城趾・右手が諏訪上社、杖突峠方面)
天守から茅野方面を望む
(左山中腹が桑原城趾・右手が諏訪上社、杖突峠方面)
諏訪護国神社
諏訪護国神社
永田鉄山中将胸像
永田鉄山中将胸像



「上社本宮」(国重文)
御祭神・健御名方神(タケミナカタ神)

 13時54分。バスを降りると、前方に鳥居がみえる。その先に小さいながらも門前町の様相を呈した街並みがあり、ちょっとした坂の脇に「上社本宮」があった。どうやらこの場所は東門に位置するらしく、左に山を背負い圧迫感に潰されそうな狭い空間の先に入口御門(文政12年・1830)があり、回廊(長廊。約70メートル。明治維新までは上社大祝しか通行できなかった。別名、布橋)が延びている。さっそく、そちらに行きたいが、上社本宮東門の正面脇に「法華寺」という寺がありなんとなく気になってしまう。どのみち上社に行くので、その前にこの寺を覗いてみる。

「鷺法山(鷺峰山)法華寺」(もと天台宗。鎌倉期に臨済宗妙心寺派に改宗)
 寺自体には興味はない。ただこの寺に織田信長が関係している。武田勝頼攻略のため信濃に攻め込んだ織田信忠軍は高遠の仁科盛信を攻略したのちに、諏訪に侵攻。諏訪大社上社本宮はこの時に焼き討ちにあったという。こののち織田信長は3月19日に諏訪入りし、本宮隣の法華寺に本陣を置き論功行賞を行い4月2日まで滞在していた。この時に明智光秀が信長に罵倒折檻され、本能寺の発端の一因にもなったという。また法華寺には赤穗浪士の犧牲になった吉良上野介の養嗣子吉良義周の墓もある。この諏訪の地は処罰者の中流の地とされており、松平忠輝や吉良義周らが流されている。明治期に神仏分離のために廃寺となったが大正期に再興された。

 いよいよ上社本宮に向かう。入口御門から、かつては大祝しか通行できなかったという長廊を通る。左側は木々に覆われた神域で後方に神体山を控えている。回廊を抜けるとあたりに急に明るくなり、ひろびろとしてくる。門を抜けると参拝所がある。ここが普通の人の参拝位置。この奧は斎庭となっており左手に御宝殿(本宮では一番重要な建物=一般的な本殿にあたる)があり、正面に片拝殿を備えた社殿(天保9年・1838)がある。ちなみに、かつての諏訪上社本宮の社殿は元和3年(1617)造営。現在は同郡の乙事諏訪神社(国重文)に移されている。社殿の後方は神域の神居の森であり、その右手が神体山。
 下社よりも原始的な自然環境に囲まれているような気がする。いづれにせよ木々が多く、諏訪の神様らしい様相ではあるが上社の方が山が近いだけあってその印象が強い。そして人も多い。どうしてこんなに多いのか分らないが、マイカーで来るらしくにぎやかであり、明るい雰囲気。それでいて神社の良さは損なわれては居ない。

上社本宮入口御門(1829年)
上社本宮入口御門(1829年)
上社本宮入口「一の御柱」付近
上社本宮入口「一の御柱」付近
上社本宮遙拜所
上社本宮遙拜所
上社本宮社殿(1838)
上社本宮社殿(1838)


 上社前宮に行きたいと思う。しかし、今度は根本的に場所が分らない。立地場所も茅野市であり、諏訪市(上諏訪駅)からは連絡の手段がない。前宮は茅野駅が最寄りであり、国境のような不便さがある。いづれにせよ私は上社本宮にいる。たぶん東に歩いていけばつくかとは思うが自信はない。例の如く札所で訊ねる。「上社前宮に行きたいんですけど」と。例の如く「車ですか?」「いや徒歩だ」といういつもの問答が行われる。どうやら東門からひたすら真っ直ぐ約2キロ歩けば着くらしい。とにかくいつものことなので歩くことにする。
 何分ぐらい歩いたかは覚えていない。ただ棚倉の時のように1時間も歩くほどにはひどくなく、ゆっくり「旧鎌倉街道」とされる道を山に沿って歩いて30分ぐらいだったと思う。
 途中、守矢家の「神長守矢家祈祷殿」(上社大祝家補佐筆頭の守矢家の邸宅)という所があった。どうみても由緒正しい古風な佇まいの個人宅といった感じで、さすがに近寄りがたい。軽く祈祷殿を覗く(?)程度にして足早に先へと歩く。


「上社前宮」(国重文・神殿跡)
御祭神・八坂刀売神(ヤサカトメ神)

 上社前宮は静かだった。今までの諏訪四宮のなかで一番静かだった。本宮とは違い誰もいない。人的な静かという意味もある。たしかに神社関係者を含め誰もいない。しかし、この静かさは別であった。この静けさは時間が止まっているかのようであった。目の前に空虚な空間が広がる。神社というイメージとは違う感覚。この感覚は「史跡・遺跡」に接したときと同等であった。この静けさは前宮の「神殿跡」が釀し出す空気に違いなかった。
 前宮は諏訪神社のなかでもっとも神聖な地であるとされている。諏訪の神がはじめて御出現なされたのがこの前宮の地「神原」であるといわれている。諏訪大社上社大祝、代々の居館があったのが前宮(神殿)であり、上社の聖地であるという。かつて神殿に居住する大祝は一種の現人神であり「諏訪明神に神体なく、大祝をもって神体となす」といわれ、諏訪神の末裔であった大祝は現身の諏訪明神とされていた。
 前宮とは文字通り「前の宮」。現在の前宮は神殿はなく、祭儀のみを司る場所であるが、古来の祭政一致時代の古体の跡を残している由緒ある史跡という位置づけでもある。
 鳥居の左隣には「十間廊」(昭和33年に火災にあい、34年に再建)という神事を行う建物があり、右には「内御玉殿(うちみたまでん)」がある。この内御玉殿は諏訪大神の幸魂奇魂をお祀りしている社であり、天正13年の古材を利用して昭和7年に造営されたものという。
 神殿跡から、登ること200メートル先に社殿がある。豊富な水と日照が得られるこの地に諏訪大神が降り立ったといわれ、諏訪信仰原点の神社。現在の社殿は昭和7年に伊勢神宮の古材を以て建てられたもの。この本殿の左後方の山が諏訪大神の御神陵とされている。
 本殿のはるか先には「杖突峠」のある赤石山脈最北端の山がみえる。脇には御手洗川として「水眼(すいが)」と呼ばれる清流が流れている。あたりの空気はやわらかとしており、淡い夕日の日差しがさしこむ。勢いよく流れる水は神々しかった。思わず手をさし込むと、独特の冷気に包まれる。疲れ気味の顔を洗い、水を口に含んでみる。予想以上に冷たくしみわたる。諏訪の神が愛した水を体感する。
 前宮はつまらないところかもしれない。このあまりにも空虚たる空間に厭きてしまうかもしれない。ただ私は諏訪信仰のひとつの象徴的風土が凝縮された空間で諏訪の神を感じとる。この神社らしくない空間に惚れ込んでしまった。この空間にとらわれ、もはや離れたくなかった。

上社前宮
上社前宮
上社前宮十間廊(昭和34年再建)
上社前宮十間廊(昭和34年再建)
上社前宮・内御玉殿(昭和7年再建、天正13年の古材を使用)
上社前宮・内御玉殿
(昭和7年再建、天正13年の古材を使用)
上社前宮社殿(昭和7年・伊勢神宮の古材を利用)
上社前宮社殿
(昭和7年・伊勢神宮の古材を利用)
二の御柱・三の御御柱。中央に流れるのが「水眼」。後方に山に杖突峠有り
二の御柱・三の御御柱。中央に流れるのが「水眼」。後方に山に杖突峠有り


 たまたま帰りのバスの時間があった。ないだろうと思っていた一日五本のバスの一本がタイミング良くやってくる。ここからJR茅野駅まで走るバス。たかだか、というかわからないがここから茅野駅までは約4キロ。歩こうと思えば歩ける距離だけど、バスが来るとわかっていると歩きたくはない。バスに乗るためには前宮を去らねばならない。去りたくはないが、帰らなくてはいけない。なんとなく心惹かれるものがあるが、バスに乗り込み4時間かかる家路につくことにする。車中で、諏訪への再訪を確信しながら。



あとがき。
 足かけ一週間で原稿用紙約40枚。大体前後篇ともに20枚、20枚。書く気があればそこそこは書くけど、もう書きたくはない(笑)。つぎは日光宇都宮の予定だけど、例の如くお預け・・・。
 諏訪大社のなかでは前宮が一番気に入りました。地味で誰もいなくて寂しげな雰囲気。あの感覚がステキです(笑)。
 例の如く、「神社」とは関係ない話が多くなったのが高島城趾。松平忠輝やら永田鉄山なんて、ほとんど着目しない視点。
 最後に一言。諏訪大社二社四宮を車以外の手段で参拝するのはかなりきついです。私のように「崇高な目的」(笑)で、相当の意地がある人以外はバスやタクシーを有効利用したほうが良いと思います。すくなくとも上社本宮前宮間を歩くのはやめたほうが(笑)。
 歩き倒すのは私のいつものことですけどね。しかし、歩く方がいろいろな発見があって楽しいですけど。



参考文献
『諏訪大社』御由緒書・諏訪大社社務所発行
『郷土資料事典』長野県・人文社
『角川日本地名辞典』長野県・角川書店
『日本の神々 神社と聖地』谷川健一編・白水社
『神社辞典』白井永二・土岐昌訓編・東京堂出版
神社。史跡案内解説版等


『日本軍閥暗闘史』田中隆吉著・中公文庫・1988年(原本・1947年)
『日本陸海軍名将名参謀総覧』新人物往来社・1995年
『捨て童子・松平忠輝』隆慶一郎著・講談社・1992年(原本・1989年)
『政宗の娘』若城希伊子著・新潮社・1987年


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