「神のやしろを想う・諏訪大社編」(前篇)
はじめに
改めて言うことでもないが諏訪大社というものは大きなものである。「神社」としても大きいが、神道に占める存在自体が大きい。まともな説明をしようとすると一冊の本が出来てしまうぐらい記すべき事柄は多いだろう。私の知識では「諏訪大社」の全体像に言及する自信がない。故に私は書きたくはなかった。ただ「参拝」をしたのだから「参拝文」を書かねば、「神社コンテンツ」の存在意義が全くなくなってしまう。しかたがないから、ここでは印象を中心に書こうと思う。いいわけがましいが、諏訪大社に関して学習する人むきの文章ではないので御了承下さい。
目次(前篇)
「下諏訪へ」
諏訪大社(二社四宮・信濃国一の宮・式内明神大社・官幣大社・諏訪神社全国5000社の総本社)
「下社春宮」(国重文)
「万治の大仏」
「下社春宮から秋宮へ(旧中山道−下諏訪宿)」
「下社秋宮」(国重文)
「諏訪つれづれ」
目次(後篇)
「上諏訪」
「手長神社」(諏訪大社上社境外摂社・県社)
「八剣神社」(諏訪大社上社境外摂社・県社)
「高島城趾」(松平忠輝公・諏訪護国神社・永田鉄山陸軍中将等)
「上社本宮」(国重文)
「上社前宮」(国重文・神殿跡)
下諏訪へ
3月の旅行の記録を6月に執筆する、という行為自体がもはや気に入らない。本心は書きたくないと思いつつも神社を書くと心を決めてしまったからには無視するわけにもいかず、いやいやながらも筆を執る。
前日は徹夜であった。つまりどこにも行くつもりはなかった。ただ気がついたら朝の5時には地元の駅に立っていた。どこに行くかも明確ではなかったが、どうやら「諏訪大社」に行くことになった。なんとなく、で神社に行くのもなにやらおかしいが・・・。
武蔵野線に乗って中央線に乗り換える。JR高尾駅で通勤電車を降り、いよいよ郊外電車に乗り込む。駅で待機していたのはうれしい115系。なじみ深い景色ではあるが新鮮でもある。桜が咲いているということだけで車窓は全く違うものとなっていた。甲斐駒ヶ岳を遠望する。眠い目をこすり、半身を夢の中に起きつつ景色を堪能する。ただ電車に身をゆだね移動しているだけでも至福の時であった。
気が付いたら甲斐から信濃に変わる。信濃路はまだ冬の様相であった。甲斐と信濃。急に春が吹き飛び寒気すらも感じてしまう。信濃の気候を甘く見ていたようだった。「桑原城趾」という大きな看板を見かけてその跡を眺めていたら、あっという間に諏訪湖を望む。急ににぎやかになり辺りを窺う。左手には諏訪湖が広がり、右手には山がせまる。あらためて見直すと意外と狭い地ではあるが、信濃の山をすり抜けてきた身としては、充分な広さをも感じながらそろそろ降り支度をする。高尾駅6時15分に乗り込んだ電車を降りる。下諏訪駅9時1分であった。
下諏訪駅を降りたは良いが、どうやって行けばよいかは分らない。とりあえず駅前の地図を見ると、下諏訪には「諏訪大社下社春宮」「下社秋宮」の二宮がある。「春宮」は徒歩で駅から北西15分、「秋宮」は東北10分。どちらから行くべきかを考える。本来、神社的にはこの二宮は全くの同格。2月1日(旧1月1日)と8月1日(旧7月1日)に下社の神様である建御名方神(タケミナカタ神)・八坂刀売神(ヤサカトメ神・本来の下社の神)が「春宮」「秋宮」二宮を季節に合わせて移動なされる。つまり私の訪問時期は「春宮」に神様がいらっしゃるわけである。だから「春宮」から行こうと思う。
「諏訪大社下社春宮」(国重要文化財)
御祭神(春宮・秋宮同じ祭神)
建御名方神(タケミナカタ神・詳細)
八坂刀売神(ヤサカトメ神・本来の下社の神・タケミナカタ神の妻神)
配祀:八重事代主神(ヤエコトシロヌシ神・詳細)
JR下諏訪駅前に「御柱」が立っている。その横には「大社諏訪神社」という社号碑がある。もとは官幣大社諏訪神社と書かれていたであろうことは容易にわかるもので、上の二文字が塗りつぶされていた。なぜ駅前に社号標があるのかはわからないが、おおかた要らないものを置いているのだろう。ちなみに明治4年に上社・下社を合わせて一社とし、大正5年に「官幣大社諏訪神社」と呼称。昭和23年から「諏訪大社」という現在の呼称となっている。
駅前を直進して交差点で左に折れしばし歩くと鳥居がみえてくる。この鳥居から先の800メートルの通りは春宮の神域であり、かつてはこの直線で流鏑馬も行われたという。
道路の先には「下馬橋」という古風な建物が残されている。室町の建立とされ、元文年間(1730年代)に修復されており、下社では一番古い建物。いまは遷座祭の神輿以外はこの橋を渡ることは禁じられているため参拝者は脇を抜けていく。
万治二年(1659)建立という石鳥居を抜けると、目の前に神楽殿(天保年間・1680年頃)があり、その奧に幣拝殿(安永8年・1779)・左右片拝殿(安永9年)がある。改めて言うけど私は官幣大社諏訪大社に参拝している。しかし予想に反して誰もいない。朝の9時15分であるとしても誰もいない。神社の関係者すらいない。神様は「春宮」に遷座したというのに、祭祀関係者は秋宮に在中したままのようである。神社の規模を考えればメインは秋宮で、サブが春宮であるのは納得は出来る。しかし、だからといって諏訪大社下社最初の遷座地である春宮に誰もいないのはショックだった。
諏訪大社は本殿がないことでも有名である。本殿に変わり神が降臨する依代は下社春宮では御神木イチイの木、下社秋宮ではスギの木とされている。また上社では御神木にかわり磐座がある。普段は山々(などの自然界)に居られる神々を御神木にお招きし、その神々に御神宝をお祭りしているのが「御宝殿」である。多くの神社が「御宝殿」から「本殿」へと形式が移行したなかで、諏訪大社下社では「御宝殿」を左右二棟それぞれを7年ごとに遷座するという慣習が続いている。だから諏訪には本殿はなく、かわりに御神木に対する宝殿があるわけである。
下社春宮はまったく静かであった。誰もいない境内でしずかに散策する。いわば「楼門」のような「幣拝殿」に圧倒される。いままで見聞してきた神社とはまったく印象の違う感じを抱く。関東三武神(諏訪・鹿島・鹿取)の一柱「諏訪神」の迫力に押し潰されそうになりながらも参拝をする。
下社春宮・下馬橋(1730年代) |
下社春宮石鳥居(1659年) |
下社春宮神楽殿(1680年・昭和初年大改修) |
下社春宮社殿(1780年) |
「万治の大仏」(南無阿弥陀仏・万治3<1660>年11月1日造営)
下社春宮からすこしばかり歩き、川を渡る。砥川という祭祀をつかさどる川を渡る。中州には浮島神社という社もある。その先に猫の額のようなたんぼがあり、その中心に「大仏」がある。阿弥陀如来仏であった。高さ約2メートル、半球状の自然石の上に大仏の頭が乗っている。なんとなく不思議な大仏。かつて新田次郎や岡本太郎が感激し、絶贊した岡本太郎は碑まで建てられている。像を見ずに碑を見るのは本末転倒。しばらく像と向かい合って四方を観覧する。
伝説によると諏訪大社下社春宮に石の大鳥居を造る際に、この石を材料にしようとノミを入れたところノミの傷口から血が流れ出たため石工達は恐れをなして仕事をやめたという。その夜に石工の夢枕元に「上原山(茅野)に良い石材はある」と告げられ、その良材で石鳥居が完成した。そこで石工達はこの石に南無阿弥陀仏をまつって記念したとされている。
正直言ってバランスの悪い大仏ではある。しかし、礎石半円球の柔らかな曲線を見ているとなんともなく楽しくなってくる。なぜだろう。なぜかおもしろい。これは実際に触ってみないとわからないかもしれない。
万治の大仏 |
「下社春宮から秋宮へ(旧中山道−下諏訪宿)」
そろそろ春宮から秋宮に行こうかと思う。例の如く、道は分らないがそこはいつもどおりに感覚で歩く。この間、約15分。まったく静かな諏訪街道を途中までは体感する。私の歩いている通りが「旧中山道」とされる道であり、例の如く静かで誰もいない道を散策する。
龍の口と呼ばれる場所に「慈雲寺」(臨済宗妙心寺派)という寺がある。下社の鬼門除けとして建立された寺院であり、開山は建長寺(鎌倉五山)住職であった一寧一山禅師。開基は諏訪大社下社大祝であった金刺満貞。諏訪湖を見渡す高台(水月公園に連なる)にあり境内裏の墓地には高島城を建設した初代藩主日根野高吉の墓所もあるという。たまたま通りかかった故に、折角だから軽く見聞していく。見聞したところで、寺は寺。とくに何があるというわけではなく(県指定文化財の大梵鐘が有名)、早々と切り上げる。
さらに歩く。旧中山道の名に恥じぬ古風な道を歩く。その先に「御作田神社」というちいさな神社があった。諏訪大社下社境外末社。境内に小さな「神事田」があり、6月30日に田植神事(現在も行われている)を行った稲が1ヶ月後の8月1日には收穫でき神前に供することができたと伝えられ、「御作田の早稲」と七不思議に数えられている。
辺りが急ににぎやかになってきて、人通りも増し、独特の雰囲気を釀しはじめる。どうやら「温泉街」ともいうべき宿場町にはいったようであった。中山道の宿場町として、そして難所の塩尻峠・和田峠に挑む宿、温泉街として発展した下諏訪の中心部に「下諏訪宿本陣」がある。ここには第14代将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮がお泊まりになった上段の間が今も残されている。
隣には「綿の湯」がある。その昔、建御名方神と八坂刀売神は諏訪大社上社の地に住んでいた。妃神が下社に行くために上社付近に湧出していた湯を化粧用にと真綿に浸し桶に入れ小舟で諏訪湖をお渡りになった。その途中に船がゆれてお湯が湖にこぼれ、その為に湖水の中から豊富なお湯が出るようになり、温泉地となったという。真綿のお湯は転々と湖中にこぼれ神社(下社)に着く頃にはほとんど無くなり化粧に使うことが出来なかったため、下社の近くに捨てると、そこから温泉が湧きでたという。そこで「綿の湯」と呼ばれるようになった。
そんな綿の湯の場所が中山道と甲州街道の合流点(分岐点)。この地点から秋宮方向が甲府・江戸方面の甲州街道。右が塩尻・木曽・京都方面の中山道。直線に春宮方向が和田峠・佐久・小諸・高崎方面の中山道。元治元年に水戸天狗党武田耕雲斎ら1000名が和田峠で高島・松本藩と戦闘した際も下諏訪宿を経由している。
この近くに、ちょうど綿の湯から宿場の路地に入った所に、小さな小山がある。この緑の森が「青塚」と呼ばれる諏訪地方最大で唯一の前方後円墳(下諏訪青塚古墳)。かつては秋宮境内に含まれていたこの古墳には境外末社として青塚社がある。横穴式石室が露出しており、後円部も削られている。現状は全長59メートルという。おそらくは下社大祝金刺氏の首長墓と考えられている。(長野県史跡)
門前町と宿場町が合体した不思議な活気に包まれながらも、目の前には鬱蒼たる緑の空間が広がる。この付近、秋宮に隣接する高台が大祝金刺氏の居城であった手塚城(霞ヶ城)とされており、木曽義仲が幼少の頃匿われていたこともあったという。(城跡は現国民宿舍の地という)
下社摂社・御作田社 |
青塚古墳石室(脇に下社末社、青塚社) |
「諏訪大社下社秋宮」(国重要文化財)
御祭神(春宮・秋宮同じ祭神)
建御名方神(タケミナカタ神)
八坂刀売神(ヤサカトメ神・本来の下社の神)
配祀:八重事代主神(ヤエコトシロヌシ神)
千尋池と呼ばれる神池を横目に大鳥居を抜ける。鳥居の先にひときわ大きい「ネイリの杉」(樹齡700年)といわれる「御神木」がある。枝が垂れて寝ているようなので「寝入り」とも、杉の挿し木に根が生えたから「根入り」ともいわれている神木。その先には、さらに大きく重圧的な迫力を感じさせてくれる「神楽殿」がある。これは春宮の比ではなかった。この神楽殿は天保6(1835)年び建立。青銅製では日本一といわれる狛犬を従え、出雲大社型の約13メートル、500キロという注連縄が目につく。(下の写真の右の巫女さんと比べると聖堂の狛犬と注連縄の大きさがわかるかと)
神楽殿の奧には、こちらは春宮と似たような社殿(安永10年・1781)がある。二重楼門造りの建物が幣拝殿であり、左右の回廊が片拝殿という。この呼称は春宮と同等。春宮では「楼門」のような「幣拝殿」に圧倒されそうになったが秋宮は神楽殿で圧倒されてしまい、逆に言うと幣拝殿は同等の形式として二度目なのでさすがに慣れてこんどはゆっくりと觀察する。
ここで冷静になって考えてしまう。たしか神様は「春宮」にいらっしゃるはずである。つまり今、この境内は無住の地なのか、と。となると参拝は春宮で済ませてしまったので無用かもしれない。しかし、参拝客は多く、神職の人びとも多い。神の御霊は無空のもので所在などはどうでもよい、とも考えられる。それでもいいが、そうなると遷座祭の意味がない。しかし温泉湯治客はひっきりなしに手を合わせている。さて、どうしよう。とりあえず、私も普通に参拝はしてみることにする。
札所で御由緒書きをいただく。先の「神様のいらっしゃる春宮」では神職不在のために御由緒書きがいただけなかった。ゆえに「神様不在の秋宮」で手持ち無沙汰気味の巫女さんから御由緒書きをいただく。ついでに物も訊ねる。「このあと上社に行きたいんですけど、どういけば良いでしょうか」と。実のところ私ははっきりとした行き方を知らない。巫女さんと「車ですか」「いや徒歩と電車です」と問答したあと「上諏訪駅から出ている『かりんちゃんバス』にのれば上社にいけますよ」と教えて貰う。「かりんちゃんとはなんぞや」と頭によぎるが、バスの名前にまで疑問を挟むべきではない。さらに「遷座祭でこの時期の神様は春宮にいっらっしゃるはずなのにどうして春宮は無人で、逆に神様不在の筈の秋宮で、かくも多くの人びとが奉仕なさっているのですか」とでも聞いてみようかと思ったが、さすがに気がひけたのでそれは止しておく。おおかた「効率性」の問題と「参拝者の利便」の問題だろうと気が付いてしまったから。
とにかく「上社」に行くためには上諏訪駅に行かねばならない。門前町をすり抜け、駅に向かおうと思う。
下社秋宮鳥居 |
下社秋宮・御神湯(温泉の湯というのが諏訪らしい) |
下社秋宮神楽殿(1835)かなり大きいです
巫女さんと大きさを比べてみよう |
下社秋宮・社殿(1781年)
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「諏訪つれづれ」
今までの文章はいささか不親切だろうと思う。一向に諏訪大社の全体像がみえてこない。そこで、ここで総括的なことを紀行参拝文とは一切関係なく記したいと思う。
諏訪大社は上社・下社を合わせて「信濃国一の宮」とされている。上社と下社は諏訪湖を挟んで対座しており、上社は赤石山脈最北部の守谷山麓に位置し、下社は霧ヶ峰山塊の西端、明神山麓に鎮座している。創始はあきらかにできないが、我が国でもっとも古い方に属する神社。延喜式神明帳に「南方刀美神社(二座)」と記載されている明神大社。全国に分社が散っており、新潟県1500社、長野県1100社をはじめ全国約5000社。合祀相殿摂末社まで含めると1万社にも及ぶと言われている。
諏訪の祭神、建御名方神は古事記(詳細)にて国譲りの際に建御雷之男神に追いつめられ、信濃諏訪の地で降参したとされている神。実際には信濃(科野)地方の有力な土着神であり風神水神として、また東国を代表する武神として篤く信仰をあつめている。もともと諏訪の信仰は山岳地帯の小盆地にある諏訪湖を中心とした嚴しい自然環境の中での自然崇拝を基にした原始信仰から神社に発展したものであり、いまでもその名残が垣間見られる。
諏訪で有名なものに御神渡(おみわたり・八剣神社の項で後述)と御柱(おんばしら・みはしら)がある。天下の奇祭として知られる「御柱祭」は正式には「式年造営御柱大祭」といい、社殿を造り替えること(式年遷宮)と社殿の四隅に御柱を立てる二つに大別される。諏訪に来て最初にみた「御柱」はなにか嬉しく「噂の柱に出会えた」という喜びも多かったが、各神社に四柱ずつ立っており諏訪大社四社だけで16本。ほかにも関係する摂末社等、またその他いたるところ(駅前とか)に柱が立っているのでいささか語弊があるが、あきてしまうぐらい「御柱」に出会えた。
しばらく諏訪の動向を記そうかと思う。(このあたりが歴史趣味の本領発揮/笑)
諏訪大社の祀職の最高位を大祝(おおほうり)という。上社の大祝は「神別(しんべつ)」といわれ祭神・建御名方神の子孫。下社大祝は「皇別(こうべつ)」といわれ天皇家の後裔とされている。
下社の大祝ははじめ金刺氏、のち武居氏で、その居館は神殿(ごうどの・上社下社共に)と呼ばれた。金刺氏は信濃国造の子孫とされ、その祖は神八井耳命(かむやいみみ命・神武天皇の御子・詳細)であり子孫の建五百建命(たけいほたつ命)が国造となったという。
鎌倉時代には下社大祝の金刺盛澄は武芸に優れていたことで知られ、この頃に大祝金刺氏を中心に武士団化したという。室町時代の文明15年(1483)に上社大祝家と諏訪惣領家の内乱争いが激化。応仁の乱以降、上社と敵対していた下社大祝金刺興春は惣領家を攻めたが逆に下社を攻められ敗死するという事件が勃発。その後、永正15年(1518)に下社大祝金刺昌春は、上社惣領家諏訪頼満に敗れ、以後金刺氏は衰退。そののちに武居氏から大祝をたてるようになった。戦乱の後、永禄8年(1565)に武田信玄(晴信)が上社・下社の祭祀再興と造営を命じたという。
一方、上社大祝(諏訪)氏は、下社よりも武士団化は早く、上社荘園の武居庄の領主として一族をまとめ、祭祀を司ると共に武士団の長となった。早くから源氏と結びつき、前九年の役(1051−62)の際には大祝為仲が従軍している。また鎌倉期の北条執権時代には執権の近侍として仕え鎌倉幕府と密接な関係にあった。幕府滅亡後の建武2年(1335)には新政府を崩壞に導く引き金となった北条時行を諏訪頼重ら諏訪一族が擁立し「中先代の乱」と呼ばれる反乱が勃発。鎌倉を陥落させ時行を執権とするが、わずか20日で足利尊氏主力に敗れ諏訪頼重父子は自害という事件があった。
これまでは上社下社は動向を共にしてきたが南北朝のころから両社は対立。また室町期には祭政が分離され惣領家が政事、大祝家が祭事を司るようになった。文明15年(1483)に大祝継満は惣領正満を倒して惣領家を奪い取ろうと画策。正月8日に祭事にかこつけて上原城(茅野市)の正満一族を上社前宮の神殿に招いて謀殺。下社大祝金刺興春はこの混乱に乗じて上社大祝家とともに惣領家を攻撃したが逆襲され、下社大祝金刺興春は戦死。その後、上社大祝諏訪頼満によって下社大祝金刺氏は永正15年(1518)に滅亡した。
こののち甲斐の武田信玄が信濃諏訪地方に侵攻。天文11年(1542)に惣領家諏訪頼重は攻められ滅亡。以後40年間諏訪の地は武田氏の領有となり、上諏訪の地に城を定め城下町の基礎を造った。天正10年(1582)に織田信長によって武田氏が滅ぼされると信長は上諏訪神宮寺の法華寺(上社で後述)で論功行賞を行い、諏訪は河尻氏に与えられたが、その年に本能寺で信長が倒されると徳川家康の保護のもと、諏訪頼忠が領せられた。家康の関東移封に際して諏訪頼忠も関東に移動。諏訪の地には豊臣秀吉の臣、日根野高吉が入封し高島城を築城(高島城の項で後述)。慶長5年(1600)の関ヶ原の役の恩賞によって諏訪頼水(諏訪惣領家の末裔)が諏訪の地に復帰した。
ここで「下諏訪」篇を終了したい。後篇は「上諏訪」。
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