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銚子大神幸祭 〜地元伝承(外川・高神) 平成21年4月19日記載

式年三社銚子大神幸祭の情報はこちらにて

先日、銚子外川の外川ミニ資料館に赴いた際に、地元に伝わる銚子大神幸祭の伝承をお伺いする事が出来た。
ちょうど私が外川ミニ資料館にお伺いしたとき、外川の活魚問屋4代目の島田政典資料館館主がいらっしゃった。
「銚子で20年に1度のおまつり」の話を訪ね、そこで島田館主さんは、「詳しい人をよんでみる」とどこかに電話。
そうしてミニ資料館に地元外川の漁師さんにして生き字引ともいえる勇精丸の田村精一さんがきてくれました。そこで島田泰枝館長さんもまじえ、田村さんから貴重な地元の伝承をお伺いできました。

その際に、2009/3に銚子界隈に回覧配布された「東大社御神幸祭」のお知らせを添付。


PDFファイル) 

こちらの回覧資料も外川ミニ資料館にて頂戴いたしました。ありがとうございました。




〜銚子大神幸祭 起源〜


第73代堀河天皇の康和4年(1102)、銚子高神の高見の浦一帯で大津波が起きこの大規模な東国の天変地異の模様が海神の怒りとなって遠く京都まで恐慌を伝えていた。
京都朝廷はこの災害を鎮めるために勅命を発し、この年の4月8日に東大社が海神の怒りを鎮めるため銚子高見浦への御神幸祭が初めて斎行された。
その後、海上の波浪は静まり、天候が回復。これにより大漁豊作が続いて人々は栄え神に感謝したという。

その後、第3回から雷神社・豊玉姫神社も加わり9回までは毎年執り行われ、10回目以降の以後900年の間は20年周期で「御神幸」が執り行われてきた。





〜銚子大神幸祭 地元伝承(外川・高神)〜


銚子大神幸祭で、神幸が必ず立ち寄ってきた場所が「宮三郎家」。なぜ立ち寄る事になったのかの答えが地元伝承にあった。

宮三郎家初代の山口三郎政春は筑紫福岡の人。
推古3年(594)蘇我馬子の将軍であった紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね・任那救援将軍や物部守屋征伐に活躍)の入朝に随行し、のちに東国にはいり、武蔵に来て妻を娶り山口三郎政春と名乗った事に始まるという。
のちに銚子の地にて海岸に住居を構え、この地を高見の里と名付け住居する所を日和山と呼称し開拓に従事。

4代山口三郎政明が和銅2年(709)に初代三郎政春より漁業を業として世を渡るをもって海神・綿津見命を渡海神に祭り、山口家の氏神とした。(渡海神社の創始は一説に和銅2年(709)とされている)

13代山口三郎政貞が、康保4年(967)に氏神であった渡海神を里人と相議し鎮守神と定め、鎮守渡海大明神と改めた。日和山に祀られた氏神改め鎮守渡海大明神を高見の里に遷座。(延宝2年1674に現在地に遷座)


16代山口三郎政信のとき、銚子外川の海岸に王子大明神(東大社の別称)の「光玉」があがったとされる。その地を「立石」と名付け、三郎政信の拾い上げたところいう。その光玉を宮三郎家の旧地である高見日和山にて奉り、山口家菩提寺賢徳院(天平2年(730)創立)に立ち寄り休憩をし宮三郎家に奉じたという。そののち香取郡諸持里境、彦次郎入道なる者がやってきて、光石を東大社に勧請。その際に東大社に赴くまでのしばらくのあいだを途中の御産宮にて光石を奉じていたといわれている。
この16代山口三郎政信の康和4年(1102)の第1回より代々の山口家が東大社の御幸にたずさわり前回53回御神幸では第47代山口宮三郎宮政がお迎えをした。

ゆえに宮三郎家は渡海神社・東大社と深い関係にあり、御神幸に際しては巡幸が光石のたどった逆順にて御産宮−渡海神社−外川港−賢徳寺−宮三郎家旧跡(高見日和山)−宮三郎家と山口宮三郎の伝承と関係の深い場所に立ち寄る事となる。

光石は伝承では東大社に納められていることとなるが、どのようなものかは不詳。一説には「琥珀」ではないかともいわれている。
(銚子と岩手の久慈が唯一の琥珀の産出地)



山口家菩提寺賢徳院

宮三郎家旧跡(高見日和山)はこの奥

宮三郎家のある外川高神の通り道

宮三郎家裏を遠望
東大社御神幸が巡行で立ち寄るという宮三郎家旧跡と宮三郎家の所在地は確認しましたが、
詳細位置は記載を遠慮しておきたいと思います。
ご了承ください。



<参考>
「銚子外川の歴史と伝説」 外川ミニ資料館 資料冊子
  田村精一(勇精丸)著

「銚子の歴史と伝説」 銚子郷土史談会 平成5年8月発行
 〜高神村の昔 山口吉兵衛 著 の項目参照〜

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