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「若狭湾岸の古社詣で・その2 敦賀(2)」
<平成17年7月参拝・7月記載>


目次
その1・敦賀(1)  「気比神宮」「金崎宮」

その2・敦賀(2)  「天満神社」「晴明神社」「八幡神社」「松原神社

その3・小浜  「鵜之瀬・白石神社」「若狭彦神社」「若狭姫神社」「小浜府中ノ総神社」
その4・舞鶴  「弥加宜神社(大森神社)」「朝代神社」「笑原神社」
その5・天橋立  「天橋立神社」「籠神社」「真名井神社」「板列八幡神社」「板列稲荷神社」



気比神宮と金崎宮を詣でてしまえば、敦賀の目的は果たしたと言える。しかし、時間もあるので町を歩こうと思う。問題なのは雨が降ったり止んだりしていること。
ちょうど気比神宮と金崎宮の間に天満神社が鎮座していた。


「天満神社」(郷社)
<福井県敦賀市栄新町>

主祭神:菅原道真

由緒
天満神社の本殿・石之間・拝殿は、もともと滋賀県彦根市の佐和山神社社殿であった。
佐和山神社は彦根藩祖井伊直政・直孝を祭神として文化四年(1807)に起工し、文化八年(1811)に創建。昭和十三年に井伊神社に合祀となった。
敦賀の天満神社は創建年代は不詳。昭和二十年の戦災によって焼失。昭和三十五年に佐和山神社の権現造社殿を譲り受けて移築。

天満神社
天満神社
天満神社
拝所
天満神社
拝殿
天満神社
本殿

案内板をみれば近江国からの移築とある。意外と遠いようで近いのは敦賀と近江。さすがに交流があるようだ。それにしても、どんな縁があったかは定かではないが、なにやらほほえましさすらも感じてしまう。
権現造りはシンプルであれどしっかりとしており、天満らしさは社頭の牛に感じる。境内はのんびりとしていて、憩いの公園でもある。



「晴明神社」
<福井県敦賀市相生町>

祭神
保食神・安倍晴明・春玉稲荷

当社は古来より保食神(食物を守護する神)の旧跡。
安倍晴明は正暦年間(990−994 一条天皇)当地に住み天文、地文の研究をし、日夜この神祠に参詣、信仰心甚だ篤かったという。

安倍晴明が天文の奥義を究めるに供した「霊石(晴明の祈念石)」が当社にはある。

明治11年に社号を晴明神社と改称、春玉稲荷は明治24年頃に合祀。大正5年西側の元朝市場より現在地に遷座。

晴明神社
晴明神社

午前9時45分。
気比神宮の約500メートル西側に「晴明神社」が鎮座している。安倍晴明の名を敦賀でみるとはおもわなかった。かなり予想外。そんな晴明神社は晴明が敦賀で修行したとされる名残。
陰陽道がどうのこうの、ということには興味はないが、安倍晴明を敦賀で拝することに意外性と愉快さをかんじて、ささやかに参拝をする。



「八幡神社」(県社)
<福井県敦賀市三島町>

祭神:応神天皇

応神天皇が武内宿禰とともに気比大神に参詣した際に、土地の豪族である五十日足彦命(いかたらしひこ命)の領地に行宮を設けた。宝亀11(780)年に行宮跡地に八幡神社を建立したことにはじまる。そのために「正八幡神社」とも呼称。
現存の石鳥居・石燈籠等は敦賀城主大谷刑部吉継が寄進。

八幡神社
八幡神社
八幡神社
舞殿
八幡神社
社殿
八幡神社
社殿

午前9時55分。
鎮座地は敦賀駅北西約1.5キロ。気比神宮からは西に1キロの地。
きわめて古い部類に属する八幡神社。創建年代が正しければ京都石清水の80年前に創建した八幡社ということになる。伝説に属する世界なのであんとも言い難いが、いずれにせよ「八幡社として極めて古い部類に属する神社」であることは間違いなさそうだ。
こういう歴史の息吹が意外にも大きいことが嬉しい。なにげない参拝で、新たな事実に接せれるのが醍醐味でもあった。
境内には宮司さんが開設した郷土博物館も併設されており、なかなか侮れない神社。


「松原神社」(県社)
<福井県敦賀市松原町>

祭神
武田伊賀守耕雲斎、以下411柱

幕末の水戸藩では急進派と保守派が意見を対立させていた。急進派の天狗党は元治元年(1864)に尊王攘夷を掲げて3月に筑波山で挙兵。水戸藩や徳川幕府は討伐軍を向け天狗党と対立。硬化した天狗党は水戸藩家老武田伊賀守正生(耕雲斎)を首領に中仙道を西進し朝廷に心情を訴えようと進軍を開始。各地で刃を交えながら美濃から越前大野を経由して11月に新保に到着。頼みの綱としていた一橋慶喜が勅命によって浪士追討総督に任命され、各藩での迎撃体制も整ったことを知った天狗党は加賀藩に降伏。
降伏した天狗党の面々は敦賀の鰊蔵に幽閉され幕府によって過酷な尋問のすえに決裁された。その結果、353名は松原で処刑斬首、追放188名、流罪137名、水戸送致128名、幼名につき仏門11名。

慶応3年に敦賀の修験行壽院が神祇白川家の許可を得て諸士の霊を祀り、水戸人根本弥七郎が明治7年に墓地付近に小祠創建して松原神社と呼称。大正4年に現在地に遷座。処刑者・戦死者・病死者411柱を祀る。

松原神社
天狗党墓所
武田耕雲斎ら天狗党の墓所。

道を挟んで東側に墓所。向かい合う西側に神社が鎮座。
松原神社
松原神社
松原神社
境内
松原神社
社殿
松原神社
移築された鰊蔵。浪士が幽閉された蔵である

午前10時15分。
鎮座地は敦賀駅北西約2.5キロ。八幡神社からは西に1キロの地に鎮座。
南北に列なる道路の東に「墓所」。西に「神社」がある。付近には「気比の松原」もある。
水戸天狗党の面々を祀る神社。墓所付近には茨城県の団体や個人の植樹が多く、なにやら敦賀にいることを忘れてしまいそうな気配。武田伊賀守に関しては多くを知らず、歴史の人物ではあれど、その無念さが、後世では神社として慰霊されているのだから、どこでなにが起きるかはまったく予見できない。幕末に翻弄された一つの象徴でもあり、そして歴史的装置がここに鎮座してる。
今は、多くを語らずに将兵の御霊に手をあわせるだけ。無心なのだ。

松原まできたら、あとは駅までバスで戻ろうかと思う。10時37分のバスに乗れば11時まえに駅に到達。ちょうどよい頃合いで、私の敦賀滞在時間は約3時間。上出来な時間配分だった。

敦賀からは小浜線にのる。時間は12時02分。小浜線は運転本数が少ないので、この時間を逃がすわけにはいかなかったのだ。


参考文献
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・18 福井県


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