神社紀行〜全国編
神社紀行〜武蔵国編
武蔵国延喜式内社
神社御朱印
記紀神話の神様
神社つれづれ
靖國神社を想ふ
かみちゅ!舞台探訪参詣記
武蔵調布の神社歳時記
下総銚子の神社歳時記
 
掲載社一覧
神社所在地図一覧
掲示板
りんく集
 
Google

WWW を検索
サイト内検索

−表紙に戻る−

「若狭湾岸の古社詣で・その4 舞鶴」
<平成17年7月参拝・平成21年2月記載>


目次
その1・敦賀(1)  「気比神宮」「金崎宮」
その2・敦賀(2)  「天満神社」「晴明神社」「八幡神社」「松原神社」
その3・小浜     「若狭彦神社」「鵜之瀬・白石神社」「若狭姫神社」「小浜府中ノ総神社」

その4・舞鶴  「弥加宜神社(大森神社)」「朝代神社」「千野宮神社」「笑原神社」「うの森神社

その5・天橋立  「天橋立神社」「籠神社」「真名井神社」「板列八幡神社」「板列稲荷神社」



16時15分に東舞鶴に到着。もう夕方ともなってきて、駅近くの神社を一社だけ参拝。

『弥加宜神社(大森神社)』(延喜式内社・郷社・彌加宜神社・舞鶴市森井根口鎮座)
 (みかげ神社)

御祭神:天御影命(アメノミカゲノミコト)・別名を天日一箇命

創立は崇神天皇のころ、四道将軍のひとりであった丹波道主命(日子坐王・詳細)がまつったことにはじまるという。
丹波道主命が祀った地に霊水があり、それを「杜清水」と呼称。
延喜式の古社。
明治社格では郷社列格。


駅近くの延喜式内社だという情報を事前に収集していたので立ち寄ってみた次第。東舞鶴駅から500メートルほど南下。途中の道すがらに水兵さんが歩いていたりして、あぁ海軍の町だなあと実感してみる。

参道が100メートル以上まっすぐに南から延びているので、神社を裏からはいるのではなく、回り込んで南側から参拝。
当社は水の神様を祀った神社と言うだけあり、社殿後方の神池は水を豊富に蓄えていた。社殿は霊水の上に鎮座しているとされ、本殿脇からは霊水が汲み取れるようになっていた。
水と緑が気持ちよい神社。心も洗われるというものであった。



『朝代神社』(旧府社・舞鶴市朝代鎮座)

御祭神:朝代大神 (伊弉諾尊・いざなぎのみこと)

創建は天武天皇の白鳳元年(672)、淡路島の伊弉諾神宮より勧請。江戸期には田辺(舞鶴)藩民の産土神。
境内は円隆寺と隣接。
現在の社殿は元文9年(1739)の再建。
昭和三年に府社昇格。


東舞鶴から移動して西舞鶴へ。舞鶴の町は東西にわかれておりいささか不便だったりする。西舞鶴に移動して17時30分過ぎ。まだ明るさが残っていたので駅近くのビジネスホテルにチェックインして、一休みしたら東舞鶴の神社を詣でてみる。
まったくの予定外ではあったが、この地に旧府社・朝代神社があったので、翌日行くよりかは早めにいっちゃろ、という次第。

西舞鶴駅から西にまっすぐ歩くと円隆寺・朝代神社に到着する。距離にして約500メートル。社地の後方は愛宕山。ついた時間は18時15分ではあったが、まだまだ明るさは残っていた。
神社自体はさほどに大きいというわけではないが、背後に山があるだけあって、樹木豊富。隣の円隆寺とともに地域信仰の中心地であったことがうかがえる。



『千野宮神社』(舞鶴市引土新鎮座)

朝代界隈鎮守のお稲荷様。「火除けの稲荷」「商売繁盛の稲荷」と伝えられてきた。また「雨乞いの神様」として篤く崇敬されてきた。
現在は地元自治体が維持をしている。


朝代神社から愛宕山に沿って100メートルほど北上をすると通り道の途中に鎮座していた。このあたりは寺院がおおく、西舞鶴市内平地部の最西端でもあった。この場所よりも西に向かおうとすると山がせまっているような場所。社殿は東面



『笑原神社』(旧無格社・延喜式内小社・舞鶴市紺屋鎮座)

御祭神:天照皇大神・豊受姫神・月夜見神
相殿神:清和天皇・宇多天皇

天平勝宝元年ごろに創建したという古社。かつては魚居社(まないのやしろ)と呼称。
古代の海部(あまべ)や凡海連(おおしあまのむらじ)に関連するという。
延喜式内の古社。


朝代神社から400メートルほど北上。愛宕山山裾の北東に位置している。社殿は愛宕山を背に東面していた。延喜式内の古社と伝わるが、いまでは小さな鎮守様といった様相。
訪れた時間はすでに18時30分。そろそろ日没が近いのでついついあしはやになってしまう。



『うの森神社』(うの森さん・盧鳥 茲鳥 神社・舞鶴市円満寺鎮座)

鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)

もと円満寺村の氏神。天正年間に細川氏が田辺城築城に際して、同村民は4軒だけを残して喜多村へ移住。氏神の「うの森」は田辺城内二の丸に残った形となる。
祭の時には村人たちが特別に城内に入るのを許されたとされる。
祭神を鵜葺草葺不合命としたのは明治以降ではないかと想定。


田辺城二の丸の地に鎮座という。西舞鶴駅の北約400メートルの地に鎮座。とても小さな空間に鎮座していた。北側には「市立明倫小学校」、東側には田辺城址と舞鶴警察署。そして交差点の名前は「大手八幡交差点」。八幡がどこにあるのはよくわからないが、中心地的な場所でもあった。

「田辺城」
織田信長の命によって、細川藤孝幽斎・忠興父子が天正10年代(1582−1581)に築城した平城。その後は京極氏・牧野氏。
関ヶ原の戦いでは東軍に味方した忠興が主力をつれて出陣中のなかで、留守居役の幽斎藤孝は西軍の大軍15000名をわずか500名にて田辺城で迎撃。50日のにも及ぶ籠城戦を繰り広げ藤孝は追いつめられるが、藤孝の身を案じた後陽成天皇の勅命によって講和したという逸話を持つ。

<wikiペディア・田辺城の戦い


田辺城址公園をぼーっとながめながら歩いていたら19時。

そろそろビジネスホテルに戻って明日に備えよう。
前日夜に夜行に乗り込んで敦賀を詣で、若狭の神社を詣でて舞鶴の神社を駆け足で参拝。そうしてこの日の宿は西舞鶴駅近くに確保をしていた。
翌日は園部の友人宅にお世話になるので経路としては舞鶴・天橋立経由の予定。




その5・天橋立 へ 

前に戻る

−表紙に戻る−