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「郷土の鎮守様〜府中・国立の神社 その4」

<平成21年9月参拝 10月記載>

府中市
芝間稲荷神社」「下河原ノ八幡神社」「中河原ノ御嶽神社」「四ッ谷ノ神明社」「上之島神社

国立市
青柳稲荷神社

府中市・国立市地域
府中市東部の神社その1」「府中市東部の神社その2」「府中・国立の神社その3」「府中・国立の神社その4

府中市の神社マップ

国立市の神社マップ



調布の自宅から自転車で西へ。まだ行っていない神社を目指して府中国立方面へとこぎ出す。今回の往復で府中方面の神社は把握済みの神社が全参拝になる予定。もちろん小祠等はまだ把握しきれていないのだが。



「芝間稲荷神社」 (府中市南町鎮座)

祭神:倉稲魂命

由緒は不詳。

芝間は現在の府中市南町1・5・6丁目の一部、芝間通り沿いに集落があった村落。もとは本町に属しており、江戸後期の「新編武蔵風土記稿」には本町としてその名が見られるという。芝間集落自体はもともと矢崎二丁目付近の古い鎌倉街道沿いにあったというが、多摩川の流路変遷に伴って南の地に移動した。


芝間稲荷神社

芝間稲荷神社

14時10分到着。
家から30分ほどを自転車で移動。だいたい8キロぐらいの移動距離。
府中本町駅より南西に1キロ。京王線中河原駅からは1キロほど東に鎮座。すぐ前を府中市コミュニティバス「ちゅうバス・南町四谷循環」が走っており、30分に1本のアクセスは確保出来る。また府中市立「郷土の森博物館」やサントリー工場の近くにある。自転車で東京競馬場の脇をぬけて、サントリー工場の脇をぬけてといった感じで到達。

最近整備されたのだろうか。境内は殺風景と言った感じではある。境内の脇には文化7年の銘がある像が小さく並んでいた。石鳥居は昭和43年4月建立。向かって右手奥にはちいさな石祠が二基並んでいる。その脇には境内で唯一の大きな樹木といってよいイチョウの木がまっすぐに伸びていた。



「下河原ノ八幡神社」 (府中市南町鎮座)

祭神:八幡大神

由緒は不詳。

このあたりは「下河原」の集落となる。現在の南町4丁目の一部(下河原通り沿い)に中心があった村落。下河原は昭和30年4月に府中に編入されるまでは南岸の多摩が行政区分であった。


下河原ノ八幡神社 正面

下河原ノ八幡神社

下河原ノ八幡神社

下河原ノ八幡神社

14時20分
中河原駅より500メートルほど南東に鎮座。上記の芝間稲荷神社からは500メートルほど西に鎮座している。
途中は遊歩道で結ばれており、その南側には都営府中南町アパートが林立している。境内の入口右側には大きな銀杏の木。左側にはシラカシやケヤキの木。武蔵野の雰囲気が色濃く出ている。石鳥居は昭和44年8月建立。石狛犬は平成9年9月建立のものである。本殿の左脇には小さな祠が一社。境内の後方は中河原駅へと繋がる遊歩道がひろがり、また広場のように開けた空間もある。ちょうど親子づれがキャッチボールをしていたのがほほえましい雰囲気。



「中河原ノ御嶽神社」 (府中市住吉町鎮座 旧村社)

祭神:大阿奈牟知命

縁起、創建年代は不詳。古来より中河原村の鎮守。一説に武蔵大国魂神社と同じ御祭神を祀るとも伝承されている。
江戸後期の文政年間には山王御嶽合社と記載あり。
明治3年に「山王御嶽合社」として村社列格。御岳大神と称したが明治29年に「御嶽神社」と改称。明治39年に府中市中河原の八幡神社を合祀。

中河原は現在の住吉町1丁目の一部に集落の中心があった村落。中河原はもともと大道(大堂)と呼ばれていたが天文年間(1532−55)の多摩川の洪水によって石河原になってしまったためそれ以降は「中河原」と呼称されるようになったという。

もともと今よりも東に鎮座していたと言うが昭和11年、昭和45年にそれぞれ新道の建設があり現在地に遷座している。

平成13年4月、社殿新築。


中河原ノ御嶽神社

中河原ノ御嶽神社

中河原ノ御嶽神社 境内

中河原ノ御嶽神社 本殿

14時30分
中河原駅より200メートルほど北側の小路に鎮座。府中住吉の延喜式内社小野神社より南に300メートルの位置でもある。社地は東面している。
社号標は皇紀二千六百年記念(昭和15年)で建立されたもの。境内は「御嶽森公園」として整備されており、町内会館が併設されている。山車小屋はシャッターが降りているが、その隣の倉庫はガラス張りであり、なかに納められている大太鼓をのぞき見る事が出来た。府中市内の各神社が保有している大太鼓はそれぞれの誇りとの事で、大国魂神社は日本一の大太鼓。それ以外の各市内の大太鼓もなかなか見応えがあるのだ。



「四ッ谷ノ神明神社」 (府中市四谷町鎮座)

祭神:天照大御神 稲荷大神 猿田彦命

創建年代は不詳。府中領四ッ谷村に第六天社として創建し、その後に三社を併合し三社宮神明社と称した。新編武蔵風土記稿編纂の頃である文政5年(1822)にはすでに「第六天社、大神宮・稲荷を合祀」の旨が記載されている。
大正2年に神明社に改称。


四ッ谷ノ神明神社

四ッ谷ノ神明神社 御神木のケヤキ

四ッ谷ノ神明神社

四ッ谷ノ神明神社

14時45分
京王中河原駅より1キロほど北西の地に鎮座。位置的には北西方向に上記の御嶽神社より400メートルで間嶋神社。そこから200メートルほどで神明社といったあんばい。社殿は東面をしている。

境内にはひときわ大きなケヤキの木があり、御神木として堂々たる雰囲気を醸し出していた。府中市の名木100選にも選ばれており「三社宮のケヤキ」として登録をされている。樹高は14.5m、幹周は3.0m。
社地の南側は「府中用水」とのことではあるが、ちょっと枯れぎみ。
境内には公園としての遊具もあり、子供が遊んでいる姿が見えるのが鎮守様の雰囲気として心地よい。緑のバランスも良い感じであり、居心地の良い空間であった。



「上之島神社」 (府中市四谷鎮座)

祭神:天照皇大神

元和元年に創建。その後、多摩川の大洪水によって没流し、明治43年に現在地に再建。

このあたりの地域は「三屋(さんや)」と呼称された。現在の四谷6丁目の一部。日野の土方一族が移り住んだものと推定。地名の起こりは「散家」が転化。上之島神社は旧地が多摩川洪水で水没したために村人の土方織部と土方八郎左衛門がここに遷座したと伝承。


上之島神社

上之島神社

15時ちょうど。
上記の神明神社より1キロほど北西。位置としては府中市の最西端といったところか。200メートルほど南は多摩川が迫っている地でもある。三屋通りという大きめの道を北上すると「上之島神社東」という信号があるのでわかりやすい。
境内は狭い。明治のころに奉納された背の低い鳥居(くぐり抜ける部分の高さが約165センチほど)と、イチョウの木が目立つぐらい。神社としても小さかった。



「青柳稲荷神社」 (国立市青柳鎮座)

祭神:倉稲魂命

由緒は不詳。
明治22年に谷保村と合併するまでは「青柳村」「石田村」として独立しており、当社が青柳・石田の鎮守であった。青柳の集落はその昔は府中市本宿の多摩川南岸の青柳島にあったが寛文11年(1671)の多摩川大洪水によって青柳島は流失、現在地に移住して青柳村を新たに開拓している。石田も青柳と同じ頃に現在の日野市石田の地から移住したたものである。


甲州街道に面した青柳稲荷神社

青柳稲荷神社 参道脇の常夜燈

青柳稲荷神社

青柳稲荷神社

青柳稲荷神社

青柳稲荷神社

付近を流れる府中用水

15時10分。
こちらは国立市。上記の上之島神社より北上する事約1キロ。駅としては南武線矢川駅より700メートル南西に鎮座している。甲州街道沿いに鳥居がありそこから南に200メートルほどの参道が延びている、境内の南側には府中用水へとながれる水路がありその先は多摩川。水が豊かな地に鎮座しているのだ。社殿は東面しているので、北の甲州街道から伸びる参道は境内で90度に折れ曲がる事となる。
境内の鳥居は昭和56年建立。甲州街道の鳥居は昭和50年建立。旗台は大正4年建立。
境内は広く、そして開放的。良く整備されており散歩コースともなっているらしく立ち寄る人も多数。良い憩いの場でもあるのだ。

ここからは甲州街道をひたすらに東上して家へと帰る約10キロの道のり。トータルで約20キロというサイクリング。たまに体を動かすとなかなか体がついてこないものであるが、こうして自転車で神社を廻るのも楽しいものだ。



参考文献等
「北多摩神社誌」
各神社境内の案内板等

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