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「郷土の鎮守様〜府中・国立の神社 その3」

<平成21年9月参拝記載>


先日行われた「小野神社オフ会」の集合地点が「谷保天満宮」に12時というものだった。
それまで時間があるので京王線「分倍河原駅」から南部線「谷保駅」にむけて甲州街道を軸にあるいてみた。直線距離にして約5キロほどの道のり。


府中市
美好町ノ日枝神社」「分梅町ノ八雲神社」「美好町ノ浅間神社(屋敷分浅間神社)
本宿町ノ稲荷神社(本宿稲荷神社)」「西府町ノ熊野神社(本宿熊野神社)

国立市
谷保ノ白山神社」「谷保ノ城山神明宮

府中市・国立市地域
府中市東部の神社その1」「府中市東部の神社その2」「府中・国立の神社その3」「府中・国立の神社その4

府中市の神社マップ

国立市の神社マップ



「美好町ノ日枝神社」 (府中市美好町鎮座)

祭神:大山咋神

創建年代は不詳。旧本宿村に江戸初期より在住の小沢氏の氏神として日吉神社を勧請したものと伝承。
明治維新に際して、日枝神社と改称。


日枝神社

8時30分。
京王線・南武線の分倍河原駅より西に500メートルほど行った南武線に沿った南側に鎮座。最初は場所がわからなくて付近をさまよいつつ「御狩場道」といわれる道から坂を登ってみてようやく発見。見つけてみれば小さな祠といった感じ。いまも小沢氏の氏神なのであろうか。詳細はよくわからない。




「分梅町ノ八雲神社」 (府中市分梅町鎮座)

祭神:素戔嗚尊

古くは「天王宮」と呼称。創建年代は不詳であれど古鎌倉街道に面した古社。社地東北角には元応元年(1319)の「供養板碑」があり、神像としては享保9年(1724)に祭神牛頭天王坐像、安永7年(1778)造の石鳥居が現存している。

平成20年12月に社殿改築を行っている。覆殿のなかに納められている本殿は万延元年(1860)に引き渡され文久3年(1867)に完成したものである。


八雲神社 正面入口

八雲神社 折れ曲がる参道

八雲神社境内風景

八雲神社正面

八雲神社本殿覆殿

「元応の板碑」(1319)

8時40分。
分倍河原駅からは直線距離で西に300メートル。分梅駐在所の交差点を北上し、南武線の踏切を渡ったところに鎮座している。光明寺坂といわれる坂を登る。この坂は「分梅道」ともよばれる「鎌倉街道」。沿道には「光明寺」「浅間神社」「八坂神社」といった古社寺が並んでおり古くからの道である事がうかがい知れる。この坂下一帯では元弘3年に新田義貞と鎌倉北条泰家が合戦した分倍河原の古戦場でもあり別名は「陣街道」「浅間道」。
八雲神社は光明寺坂をのぼった南北線の北側に鎮座。社殿は東面している。
雰囲気の良い境内。新築社殿がすがすがしく気持ちよい。創建年代は不詳であれど古さを感じさせる佇まいに居心地良さを感じる。

神社の隅の方には「元応の板碑」という古めかしい板碑がある。なかなか味わいが深い存在感を放っていた。
これは鎌倉中期から室町後期にかけての約300年間に秩父産の緑泥片岩を板状に加工した塔婆であり関東地方で盛んに作られた造立されたうちのひとつという。八雲神社脇の板碑は年代的にも古く旧鎌倉街道の脇に残っている事から造立当時の面影を良く残している。
板碑は「元応元年(1319)」11月8日に「大蔵近之」という人物が亡き父親の「道仏」の17年忌の供養のために建てたものと解釈されている。この板碑は「新篇武蔵風土記稿」「江戸名所図会」にも記載がある。 




「美好町ノ浅間神社(屋敷分浅間神社)」 (府中市美好町鎮座)

祭神:木花開耶姫命・宇迦之御魂命

当地域周辺を「屋敷分」という。これは国府時代に武蔵国の国衙の在庁官人で後に六社宮大国魂神社の神官となった社家が居住していた屋敷跡からきているとされる。

村社「浅間神社」は明治41年に同村の稲荷社と合祀し現在地に遷座。旧社地は武蔵野台の府中病院の敷地内という。
石鳥居は嘉永7年(1854)に屋敷分村氏子中によって奉納されたもの。旧社地の鳥居と推定。


浅間神社 正面

浅間神社 正面

浅間神社 本殿覆殿

社号の標石は「大国魂神社宮司猿渡盛文書」平成元年八月奉納

8時50分。
分倍河原駅からは直線距離で北西約300メートルの地。前述の八雲神社からは北に150メートル。同じく鎌倉街道にむかって社殿は東面している。
社頭の両脇にはひときわ大きな木が二本たっている。境内はさほどに広くはないが窮屈さを感じさせない。木々の生え方のバランスが良いのだろうか。社殿周辺に木々が生えているとやっぱり安心するのだ。

鎌倉街道に対して社地の脇を通る「浅間横丁」道が交差している。その道を西にむかて歩いていくことにする。




「本宿町ノ稲荷神社(本宿稲荷神社)」 (府中市本宿鎮座)

祭神:倉稲魂命

創建年代は不詳。天正元年朝倉義景が越前で滅亡後に一族がこの地に逃れて朝倉氏の氏神として当社を創建したとも伝えられる。
またご神体の尊像が足利室町時代末期のものとも伝承。
江戸時代を通じての崇敬は篤く、稲荷大明神の扁額は文化12年8月23日松平定信公の筆になるものとも伝承。

イチョウの「府中の名木百選」。樹高20メートル、幹周4.2メートル


本宿稲荷神社

本宿稲荷神社

9時。
浅間神社より300メートルほど西に向かう。途中からひときわ大きなイチョウの木が目についたのでそれを目標に歩いていたら神社に到達出来た。社殿は旧甲州街道に対して北面している。境内はほぼ大半を駐車場が占めており、ぽつんとイチョウの木と社殿がたっていた。いささか解放的すぎる空間だった。




「西府町ノ熊野神社(本宿熊野神社)」 (府中市西府町鎮座)

祭神:素戔嗚尊

往古は熊野大権現の称し本宿村の総鎮守。
創立は江戸初期と伝承。別当寺の弥勒寺とともに本宿町1−35の地に鎮座していたが安永6年に現在地に遷座。
本殿は遷座時の安永6年のまま覆殿に納められている。拝殿は天保9年再建、安政6年修復。

国史跡「武蔵府中熊野神社古墳」
7世紀飛鳥時代の「上円下方墳」。上が丸くて下が四角い古墳。
全国でも3例目の数が少ない「上円下方墳」。埋葬者は東国の有力者である事は確かであるが定かにはなっていない。その後2007年に東京都三鷹市の国立天文台構内古墳(7世紀中期と推定)が4例目の「上円下方墳」として確認されている。全国の4例の中では当古墳がもっとも古い造営とされている。


本宿熊野神社 ちょうど祭礼の準備真っ最中

本宿熊野神社 大太鼓準備中

本宿熊野神社 拝殿

本宿熊野神社 本殿裏の古墳

本宿熊野神社 古墳後方

9時10分。
最寄り駅は南武線の西府駅から北に400メートルといったところ。社地は甲州街道に面して南面している。
前述の稲荷神社からは北西に600メートルほど離れている。

ちょうどお祭りの日だったようで境内では朝から準備で大忙しの様子。おまつりだとはまったく知らなかったので借りてきた猫状態で邪魔にならないように参拝。この神社は以前に甲州街道を友人の車で走ったときに気になっていた神社。全国でも珍しい「上円下方墳」があると聞いていたのだが、しばらく保存工事が行われていたようで以前は車から拝見したときはシートに覆われていた。今日は保存工事も完了していて立派な状態で古墳の姿を拝見する事が出来た。もっとも下からみただけでは「上円下方墳」の醍醐味は半分ぐらいしか味わえないのが悔しくはあるがそれでも満足。面白いものが拝見出来た。




「谷保ノ白山神社」 (東京都国立市谷保鎮座)

祭神:菊理姫命・素戔嗚尊・倉稲魂命

由緒不詳。


白山神社

白山神社

熊野神社から西へ600メートル。国立市に突入した谷保地区の東側に位置している。ここまで来ると谷保駅が近くなり谷保駅からは400メートル南東。社殿は小さな祠があり覆殿のなかに収まっている。隣はアパート。後方に二本の大きな木が立っている環境。なんとも言いようがない環境ではあるが、この大きな二本の木のために祠があると考えた方が「無難かもしれない。




「谷保ノ城山神明宮」 (東京都国立市谷保鎮座)

祭神:天照皇大神

谷保の城山(津戸城・三田城・谷保城)の守護神として創建されたと伝承。


「谷保の城山」
一般的には「谷保の城山」として知られる。比高8メートルの青柳段丘の崖縁に位置している。
城郭は中世期の方形的居館の変形で複郭式館。
菅原道真の子とされる菅原道武(谷保天満宮の祭神)の旧館とも菅原道真−道武の子孫で鎌倉期の源頼朝に仕えた津戸三郎為守(府中天神島から谷保に天満宮を遷座した領主)の館跡ともいう。中世期に武蔵野を治めていた三田県主平貞盛が城主であったともされている。


谷保の城山 神明宮

谷保の城山 神明宮

谷保の城山 神明宮

谷保の城山 神明宮

谷保の城山

谷保の城山 空掘跡

谷保の城山 虎口

10時10分。
谷保天満宮より西に500メートルの地。谷保駅と矢川駅のちょうど中間ぐらいに位置している。付近は「谷保の城山歴史環境保全地域」として往時の面影が色濃く残っている。その北東側に神明宮が鎮座している。城山の散策路を歩いていると館跡の雰囲気が良く残っているのがわかる。堀の雰囲気を感じながら歩くも、なかなかノンビリとは歩けずについ足早く歩いてしまうには訳もあっていたるところに「マムシに注意」「スズメバチに注意」とあるとおちおち歴史散策も出来たものではなかった。季節は9月。スズメバチ的には一番危険な季節でもあり、ハチ嫌いな私としては掘跡や神社の散策もそうそうにせざるを得なかった。
神社は竹林のなかにあって社地は南面。ハチの心配がなければ、気持ちの良い空間かと思われる場所。神明宮から城山への散策路の途中には井戸の跡もある。城山の南側は湿地の雰囲気を残しており、中世の館跡としては貴重な空間であった。

分倍河原駅から約2時間掛けての5キロの散策も終了。谷保駅前で一休憩したらオフ会の集合場所である谷保天満宮に向かうことになる。



参考文献等
「北多摩神社誌」
各神社境内の案内板等

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