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「奥州棚倉を想う」

目次(平成14年3月訪問)
奥州安積郡・郡山
安積国造神社」(県社)
JR水郡線
奥州白川郡・棚倉
赤館城趾」(中世棚倉史等含む)
宇迦神社」(県社)
棚倉城趾
馬場都都古別神社」(延喜式内明神大社・国幣中社・陸奥一の宮・馬場明神)
八槻都都古別神社」(延喜式内明神大社・国幣中社・陸奥一の宮・八槻明神)

附記(平成14年5月訪問)
安達太良神社」(県社・奥州安積郡鎮座)



「奥州安積郡・郡山」
 いつもの通りに東北本線に乗り込む。何度も同じことをするのは好きではないが、私が福島に向かうときは東北本線に乗らざるを得ない。以前乗車した「東北本線城跡紀行」とまったく同じコースを辿ってとにかく「郡山」を目指す。浦和駅発5時29分、黒磯行き普通電車は嬉しいことに115系クロスシートであった。なによりもクロスシートというのがありがたい。やはり、何処に行くにしてもこれでなくては「旅」の雰囲気が出ない。とにかく乗ってしまえば知った路線。こんな時間の電車に乗れば眠くなるのも必然である。大宮駅で国鉄塗装のボンネット車急行「能登」を拝見して、久喜・栗橋でJR線よりも断然偉そうな東武鉄道に接し、薄暗い宇都宮駅を抜け、黒磯まで電車はひた走る。黒磯駅に7時47分に到着し接続で乗り換えた電車はJR東日本が誇る東北画一通勤車両「701系」。もう面白くないが、いたしかたがない。7時52分発の電車はうっすらと雪の残る那須を通り抜け、一路福島県へ。8時23分に懐かしい「白河」で白河城趾に接し、8時55分に福島県下最大の商業都市「郡山」に到着。次に乗るべき「JR水郡線」は郡山発9時54分。時間にして1時間もあったりする。家を出る時間を1時間遅くしたら10分の連絡でスムーズに水郡線に乗り換え可能なのに、それをやらずにわざわざ1時間待ちを承知で始発電車に乗ってきた。やはりせっかく「郡山」にいるのなら「郡山」を歩きたい、ただそれだけだった。もっとも「郡山」のことは知らない。私は福島北部の人間であり中部は素通り。郡山を歩くのも今日が初めてであった。歩くといっても普通の「都市」。なにか真新しいものがあるわけでもない。

 一言で「郡山」とは言うけれどもこれが意外と広範囲に渡っていてかなり困る。西は猪苗代湖に到達し会津若松市に接していたりする。それでいて「郡山」といわれても歴史的印象は薄い。福島県を贔屓している私ですら「郡山」といったら「大和郡山」が頭に浮かぶ。歴史的イメージは大和国の郡山の方が圧倒的に強く、陸奥国の郡山というイメージはあくまで江戸期の奥州街道宿場町(歴史文献的には戦国蘆名氏以来の地名呼称)や開拓のための安積疎水ぐらいでしかない。その江戸期も南の白河藩12万石、棚倉藩6万石、北の三春藩5万石、二本松藩10万石、そして西の会津藩23万石等に囲まれ霞んでおり、ましてや「郡山藩」というものはなく、この地域は会津藩や二本松藩の藩領として代官所が置かれていたにすぎない。
 古代、郡山は「安積国」であった。ただ国という言い方はいささか不自然ではある。不自然ではあるが「安積国造」がいたのだから「国」ではある。一般的には陸奥国安積郡の方が良いかも知れない。どちらにせよ「安積」(あさか)と呼称された地域であった。大化の国郡制定時の安積郡は現在の田村郡・安達郡及び郡山・二本松市をも含んだ広大な郡であった。
 安積という地を深く考えたことはないし、その必要もないだろう。第一私が目的地としている地は「白川郡(東白川郡)棚倉」であり、その途中の一時間だけ安積郡山に寄り道したに過ぎない。ただ、駅から歩いたところに「安積国造神社」という神社がある。名前から推測できるように安積国の国造に関係する神社である。しかし安積国という国のイメージは湧かない。



「安積国造神社」(あさかくにつこじんじゃ・県社・安積国郡開闢祖宗廟・郡山総鎮守)
御祭神
和久産巣日神(わくむすひのかみ・トヨウケ比売神の母神・農業神・詳細
天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと・饒速日命<詳細>が天降りの時に供奉した神・比止禰命の祖神)
比止禰命(ひとねのみこと・安積国開祖)
誉田別命(ほむだわけのみこと・応神天皇・八幡大神)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと・稲荷大神・詳細

 第13代成務天皇の御在位5年(1860余年前)、比止禰命が勅命により初代の安積国造に任ぜられ労苦を尽くして荒野を開き、安積国を建国したという。比止禰命は、まずはじめに赤木山(赤木町内の赤木神社・安積国造神社の旧社地)にやしろを創建し、和久産巣日神と天湯津彦命(饒速日命<にぎはやひのみこと・物部氏穂積氏祖神>天降りの時に供奉した神、十世孫が比止禰命という)を祀り、開発の成功と国の安泰、人々の幸福を祈願したことが安積国造神社の起源という。比止禰命は神去られた後に、御神霊が合祀され、延暦19年の坂上田村麻呂将軍の東征の際に将軍八幡大神を祀り、それ以来八幡宮とも呼称されている。武人の崇敬も篤く、源頼義・義家も戦勝祈願に訪れている。天和3年に赤木町から現社地に遷座し、この時に安積領主伊東氏(伊豆以東氏系)が祀っていた稲荷社も合祀され、郡山総鎮守として尊崇されてきたという。旧社格は県社。本殿拝殿等の社殿は文化7年の造営。また国造の子孫が神社宮司として現在も奉仕しているという。

安積国造神社(有栖川宮熾仁親王殿下謹書)
安積国造神社(有栖川宮熾仁親王殿下謹書)
安積国造神社拝殿(文化7年造営)
拝殿


 完全に街に吸収されている神社であった。それでいて「神社の風格」は保たれていて、境外の喧噪さも嘘のように静かであった。さすがに9時過ぎに参拝するのも気が引けるが丁重に参拝して御由緒書きを戴いたら、それで用事は済んでしまったりする。
 境内に像がある。近寄ってみると「安積艮斎(あさかごんざい)」とある。どこかで聞いたことのある名前であったが、あまりに唐突で思い出せない。思い出せないから御由緒書に目を通す。聞いたことがあるはずで幕末の「昌平黌」学問所教授であった。姓の安積がこの地の安積であり、安積艮斎は第55代宮司安藤親重の三男である、とのこと。もっとも具体的にはたいして存じてはいないのだが、それでも知識はざわめく。小さな歴史に接したときのうれしさとでもいおうか。儒学のみならず洋学にも通じていた安積艮斎が初期日露外交に貢献した教育者でもあった。門人には小栗上野介、川路聖謨(かわじとしあきら)、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、福地源一郎、等々二千名を越す門人がおり近代日本の礎となっている。


「JR水郡線」
 もともと寄り道の身分であり、時間も少ない。郡山駅にそうそうに立ち戻り、水郡線に身をゆだねることにする。9時54分、意外に大勢の客を乗せて車両は動き出す。キハ110系の二連。恐ろしく何もなく誰もいない駅を幾つも経由し気動車は走る。たいしたスピードは出ていないはずだが、ディーゼル音とレール音の豪快さに速さを感じさせてくれる。
 水郡線は昭和9年に全線開通した水戸駅と安積永盛駅137.5キロを運行する路線。但し、路線上は安積永盛駅だがすべての運行は一駅先の郡山駅まで乗り入れている。比較的乗りにくい路線であり、郡山発で水戸まで直通しているダイヤは5本。中間駅である常陸大子駅までのダイヤが2本。その他2本の計9本ほどしかない。これが水戸駅側だと運転本数は比較的多い。もっとも上菅谷行きが増えているだけで本来の水郡線として郡山に到達できるダイヤは8本程度でしかない。運転間隔も半端であり郡山発常陸大子方面行きは6時05分・7時11分・9時54分・(12時24分、不定期ダイヤ)13時49分・15時54分・16時49分・18時18分(平成14年3月ダイヤ)でしかない。これでは時刻表を駆使するまでもなく、磐城棚倉駅11時08分に下車したら何がなんでも次の14時51分(郡山発13時49分)に乗る以外の選択肢はない。
 棚倉町という町がどの程度に規模かは分からないが3時間30分という滞在時間は固定されてしまう。そんな事を考えながら水郡線という長閑な路線を走る。長閑すぎて意識が飛んでしまうほどであった。


「奥州白川郡棚倉」
 阿武隈山地と八溝山麓に囲まれた地に位置する棚倉は茨城県下に流れ出る久慈川の上流にあたる。棚倉は古くは種倉といった。稲作が初めて東北地方に導入された頃、この地に水稲の種を保管する倉があったためとも言われている。
 棚倉には愛着を感じている。以前『東北城跡紀行』で「白棚(はくほう)鉄道」に触れたとき以前から棚倉に惹かれていた。深い理由は分からない。ただ歴史の舞台として輝いていた。福島県下の城下町はいくらかあるが、棚倉城下に惹かれてしまう。理由はわからない。ただ私は、「棚倉」でなにかを見つけるためにやってきたのかもしれない。
 11時08分、磐城棚倉駅着。随分時間がかかった気がする。郡山から棚倉に行くというのは本来なら大回りであり、実は白河駅で8時35分のJRバス(例の白棚線)に乗り換えると棚倉駅には9時29分についたりする。バス代770円で2時間速く着くか、あくまで18きっぷにこだわるか。ただバスに乗るのはおもしろくないし、鉄道が走っている場所は極力鉄道に乗りたい。水郡線には乗ったことがないし、それはなんとなくおもしろくない。
 第一、この地は安積郡ではなく白川郡(現在は東白川郡)である。つまり白河と連動して接しなければいけない地である。ただ私の都合と鉄道路線の関係から安積郡郡山を経由しただけであった。
 とにかく磐城棚倉駅に着く。棚倉駅でもよいのに磐城(いわき)を冠している。駅名は「いわきたなくら」という。町名は「たなぐら」。他に「棚倉」という地名がないにも関わらず「磐城」という響きの良い言霊を宿している。(*奈良県にありました・・・棚倉が。後日談)
 この地は陸奥国である、ただ細分化させると「磐城国」という。郡山・会津は一括して「岩代国」。磐城というと白河・三春・平・相馬が属す。しかしイメージとしては太平洋側地域(福島県では「浜通り」と呼称)。その「磐城」を関した「磐城棚倉」駅。この語呂に惹かれたのかも知れない。駅前は何もない。観光案内所の一つでもあるかとおもったが何もなく、小さめなロータリーにバスとタクシーが停車しているだけであった。いつものことながら行く場所は明確ではない。ただ二社ある都都古別神社に行くだけでは味気ない。駅前の地図と手元の地図を見比べてまずは北部の「赤館城趾」に行ってみようかと思う。


「赤館城趾」(中世棚倉史)
 城といっても近世的な城ではなく中世的な城館であるのは承知している。右手に「宇迦神社」という県社を望む。鬱蒼とした木々に囲まれた神社に惹かれるものがあるが帰路に立ち寄ろうと思う。
 まずは「赤館公園」に向かう。棚倉駅前から1.5キロほどを歩くと左手に「赤館公園」入口とある。現在は城跡が公園として整備されている。ところが典型的な山道となってしまい、私は登山のような気持ちで登る。これは間違いなく山だと思いつつ、駅から入口までの15分に匹敵する距離を入口から城跡まで登る。急に目前が開けるとそこが「一番平」という主郭の場所であった。もっとも何もない。公園として整備されており芝生が広がる空間。誰もいない。城を偲ぶものもない。ただ標高345メートルの山を登るという行為で東北地方屈指の山城を体感する。眼下を望む。阿武隈と八溝に囲まれた狭い地域が棚倉であった。一望してしまえば随分高いところまで来たと感慨に耽ってしまう。
 赤館城趾といっても大したものではない。ただ赤館の歴史の末期に「立花宗茂」という「鎮西一の忠勇、天下無双の勇士」と秀吉にたたえられた好漢がいた。九州一と讃えられた武将が棚倉の大名になっていた。それも不思議な縁であった。私は城趾で立花宗茂を想うぐらいしかすることがなかった。それでも私は奥州が好きな人間。城趾にあるかなり詳細な赤館の解説版(郷土史家・澤田周作氏による)を熟読する。以下、解説版やその他資料によって赤館の歴史を綴ってみたい。

 棚倉の北部に位置する赤館を南に流れる川が久慈川となって関東を潤す。赤館の北面は阿武隈川となって奥州を潤す。この345メートルという丘陵が関東と奥州の分水嶺であり、文化の交差点であり、軍事の要衝であった。
 鎌倉初期は伊達氏の飛び地であり、伊達家臣の赤館源七郎が山上に城を築いたことにはじまるという。その後、この地は南北朝の動乱をへて白川結城氏の直轄地となり関東と奥州の狭間で独自の文化が発展していった。
 永正10年(1510)佐竹氏が白川結城氏の支配する常陸北部を支配し赤館の地は佐竹氏の最北部となった。元亀2年(1571)、白川義親(白河義親、結城義親とも。支族小峰氏の出)は領土奪回のために赤館の地に進出し佐竹氏と激戦となった。一方でこれを好機とみた小田原北条氏が佐竹氏支配の下妻城(茨城県下妻市)に進出。下妻城を攻められたために佐竹氏は白川氏との間に赤館城を放棄する和睦を結んだが、以後毎年のように戦禍に見舞われることとなった。天正3年(1575)に佐竹氏18代当主の佐竹義重は大攻勢でもって赤館を攻めたがこの時は蘆名・白川連合軍が撃退。しかしこの後に白川義親は佐竹義重に敗北し、義重の次男・義広(盛重とも)を養子として隠居した。のちに白川結城家の養子の義広が、蘆名盛隆の娘を娶り20代当主となる。
 棚倉の地は落ち着き始めていたが、このころから伊達氏の台頭がすさまじかった。天正13年(1585)に佐竹・蘆名・相馬・白川・石川・岩城・畠山の奥州南部の街道七家と敵対し、のちに「人取り橋の戦い」と呼称される奥州連合軍との激戦を制した伊達政宗は翌年に二本松城をくだした。
 天正17年(1589)。この年は奥州各地の豪族が驚天動地した年であった。前16年に秀吉の小田原城攻めが近いことを察していた政宗は田村氏の内紛で相馬義胤と争い、佐竹・蘆名連合軍と郡山で激突するも一時休戦。政宗は天正17年の春をじっくりと待っていた。この年、最初に岩城常隆(岩城親隆<伊達晴宗〔政宗の祖父〕の長男・岩城家に養子>の子)を挑発して田村氏(政宗夫人の実家)と戦わせ、その隙に蘆名領であった安積郡に進出。その勢いのまま5月には阿古島城をくだし磐梯熱海、猪苗代まで一気に迫った。蘆名氏はあわてふためき近隣の同盟諸豪族に密使を飛ばして政宗に対処する。最初に動いたのは岩城常隆であり田村氏の本城、三春城に進撃を始めた。政宗は腹心である伊達成実(伊達実元の子)と片倉小十郎景綱を派遣して三春を守らせ、それと同時に自らは会津とは正反対の太平洋側の相馬盛胤・義胤父子を反転攻撃。さらには蘆名氏傘下の猪苗代城主である猪苗代盛国を調略し、いずれも成功させている。相馬方面を蹂躙し相馬氏の本城である中村城に政宗が兵を進めると、岩城常隆とともに三春城に進軍していた相馬氏はそれどころではなくなりあわてて引っ返して中村城を守護しなくてはいけなくなった。相馬氏を中村城に封じ込めたときにはすでに政宗は安達郡にとって返しており、伊達成実と片倉小十郎は猪苗代に入城。蘆名氏にたいして万全の体勢を整えていた。
 蘆名義広は郡山南方の須賀川城(二階堂氏持ち城)で猪苗代城の寝返りを知り、慌てて本拠の黒川城(のちの会津若松城)に入城。蘆名義広が頼りとしていた相馬義胤は中村城から身動きがとれず、岩城常隆は三春で田村氏と対陣。義広の実家で一番信頼できる盟友である佐竹氏は秀吉来襲前に必死に地固めをする北条氏と対峙しており身動きがとれなかった。この年の6月5日、弱冠23歳の伊達政宗が摺上原で蘆名義広と対峙しこれを撃破し圧勝。この戦いは戦国史上まれにみる快勝とされている。蘆名義広は黒川城を捨てて実家の佐竹氏のもとに逃亡した。
 蘆名氏が滅びてしまうと他の連合諸豪族の運命はきまったも同然であり、10月に岩城氏と須賀川の二階堂氏が降伏。11月には石川郡の石川昭光と白川郡の白川義親が降伏した。その11月には政宗は下野国の那須まで進出し、翌年の佐竹攻略に備えた上で12月に本城を米沢から黒川(会津若松)に移転。東北一の大勢力を築き上げた年となった。
 翌、天正18年(1590)正月。「七草を 一手によせて つむ菜かな」(七草とは街道の佐竹・蘆名・相馬・白川・石川・岩城・畠山という七将)と詠んだ政宗はまさに絶頂であった。
 伊達氏は鎌倉期に飛び地として領有してきた赤館を分国することなく支配し、この地が対佐竹最前線となった。今、南麓を流れている川はこの時に掘られたものとされている。
 しかしこの年は、奥州以上に中央の展開が早かった。政宗の奥州制圧以上のスピードで秀吉は九州征討を終え、そして関東の雄小田原北条氏をも捻り潰してしまった。伊達政宗は戦争終盤にかろうじて小田原に参陣。秀吉の「奥州仕置」で旧蘆名領は没収され、伊達氏は米沢に戻り、そしてこの赤館の領主であった白川結城氏は領地没収され消滅。佐竹氏の領地とされた。
 徳川の天下になると佐竹氏は秋田に転封され棚倉は天領となる。その後、慶長10年(1605)に柳川13万石を没収された立花宗茂(九州大友の猛将高橋紹運の長男。大友の烈将立花道雪の養子。大友氏崩壊のなかで津波のように押し寄せる九州の雄島津家相手に高橋父子は最後の防波堤となり奮戦。秀吉の九州遠征軍を間に合わせ、秀吉に「西国無双の勇士」と称された武将。関ヶ原で西軍に味方し領地没収されるも柳川13万石の旧領に復帰した戦国の快男児)が奥州棚倉に1万石を授かり赤館城主(実際には佐竹氏が秋田移転の際に赤館城を破却しているため城ではなく麓の館で居住)となった。慶長14年(1609)には5万石となった。翌年、立花宗茂が城の東の丘陵に宇迦神社を遷宮し、神社は棚倉の氏神として崇敬されている。
 元和6年(1620)に立花宗茂は旧領柳川13万石に復帰(西軍の将で旧領に復帰した希有の例。これだけでも立花宗茂の人となりがわかる)し、元和8年に丹羽長重が5万石で入封。赤館は中世の山城に過ぎず不便であったので領内の適地(都都古別神社及び棚倉城の項で記す)を探させ、平城を築城。以後の赤館は廃棄された。丹羽長重は城下町が完成する前に白河10万石に転封され、寛永4年(1627)に内藤氏が5万石の棚倉藩主となり城下町を整えた。
 あとは棚倉城の話となるので割愛。ただ寛永6年(1629)に紫衣事件(大徳寺・妙心寺の紫衣授与に関係して後水尾天皇と徳川家光の間が険悪化した事件。沢庵和尚が出羽上山に流された)があり京都の玉室和尚が棚倉に流され赤館の地で庵を結んでいたことだけを触れておく。

赤館城趾
赤館城趾
城趾から棚倉町を望む
城趾から棚倉町を望む


 赤館に長居しすぎた。時間的にはたいしたものではないが、文章的に「伊達氏」が混入してしまい、いささか「赤館」とは外れてしまった。伊達に関しては「東北本線城跡紀行」も簡単に発祥時や南北朝期、天文大乱期に関して記してあるのでそちらと合わせて見ると、中世から戦国までの伊達氏の動きが連続的に把握できるかと。
とにかく、下山して宇迦神社に行こうと思う。




「宇迦神社」(うかじんじゃ・県社)
御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと・詳細

 成務天皇のころ、白河の国造が倉稲魂命を祀ったことに始まるという。神亀年間(724)当時に社が創立され、江戸初期の立花宗茂の代になって現在地の赤館の山と対峙する「鹿の小山」という山に遷座されたという。明治3年に村社、昭和16年に県社に列せられている。

 なんとなく赤館山の隣に鎮座していたから参拝してみた。さきほど息も絶え絶えで山に登ったかと思ったら、こちらも負けずに山であった。杉の古道のなかを進む。不思議と花粉症も杉木立の中に入ってしまえば意味もないのか、花粉症というばかばかしさを意識しなくても良くなる。参道を登れば社がある。無人の社がある。それだけだった。誰もいない境内に無人の社務所。こんな場所に来る物好きはいないようだ。私もただ「県社」という格につられたに過ぎず、境内散策を終えれば下山するだけであった。

県社・宇迦神社
県社・宇迦神社
宇迦神社拝殿
拝殿


 一度、駅前に戻る。片道15分程度歩いて駅に戻り、本来の目的地である「都都古別神社」に15分程度歩いていく。棚倉を歩き倒すかのように歩く。杉がなくなりアスファルトを歩き始めると花粉症が再発する。
 私の順路は「馬場都都古別神社」を参拝して「棚倉城趾」を見聞して「八槻都都古別神社」を参拝して水郡線で帰宅という手順ではあるが、筆の都合もある。順序は変えたくないが「同じ神社」が二社あるというのでもややこしいので、城を先にして神社をあとにしたいと思う。


「棚倉城趾」(別名、亀ヶ城)
 棚倉城趾といっても天守閣が残っているわけでなく、あくまで典型的な平城で水堀と土塁があるにすぎない。
 ここからは赤館城の続き。元和8年に5万石で入封した丹羽長重は赤館を廃して寛永2年から城を築城開始。棚倉城は赤館の南、久慈川と支流に挟まれた台地が選ばれ、その地に鎮座していた「都都古別神社」を馬場の地に遷座させて築城された。寛永4年に丹羽長重は城下町が完成する前に白河10万石に転封され、内藤氏が5万石の棚倉藩主となり城下町を整えた。棚倉藩は立花宗茂・丹羽長重以降は主として譜代大名が入封し、内藤氏3代、太田氏1代、松平氏1代、小笠原氏3代、井上氏1代、松平(松井)氏4代、最後は阿倍正静が入封し、それぞれ5〜9万石であった。
 幕末の棚倉藩は慶応4年時の米沢会津討伐軍が北上した際は朝廷軍(明治新政府)に恭順するが、征討軍参謀世良修蔵の刺殺、会津軍白河進軍などの状況変化により奥羽越列藩同盟に加わった。戊辰戦争では、奥州諸藩の前線となり慶応4年(1868)5月1日に白河城が落城。同年6月24日に棚倉城に明治新政府軍が攻撃。棚倉藩は降伏し明治4年7月に廃藩、棚倉県(旧棚倉藩領<伊達・信夫・白川・磐城・楢葉郡>)となり棚倉に県庁がおかれた。その後、平県・磐前県を経て福島県となった。

ケヤキの大木
ケヤキの大木
棚倉城趾
棚倉城趾


 駅から10分ほどあるいたところに城趾がある、と観光案内に書いてある。棚倉城下の街並みが残された地域を歩きながら城を探す。古い街並みで、なかなか目的地が見つからずにぐるぐると同じ所をまわったような気がして徒歩10分の道のりを20分以上かかって探し出す。城は戊辰戦争で焼失してしまったが、それでも城の風格は漂っている。大手門跡に高さ32メートル、周囲13メートルという大ケヤキがある。丹羽長重が築城する以前、つまり都都古別神社鎮座当時からこの場所に存在していたというケヤキの木。この樹齢600年というケヤキの大木の後方にのっそりとしたまさに亀ヶ城と呼称された棚倉城趾がある。このケヤキの木は戊辰戦争でも燃えずに残った。今は戊辰の奥州魂を感じるのみの城跡を望み、城を想う。のどかな公園として堀の内側は整備されており町民の憩いの空間であることは容易に察せられる。


「都都古和気神社」(つつこわけじんじゃ・式内明神大社論社・陸奥一の宮・国幣中社・馬場都都古和気神社・馬場明神)
御祭神:味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと・オオクニヌシの御子。関東、東北の郷土開発に尽くされた神・詳細
配祀神:日本武尊(やまとたけるのみこと・詳細
 約1900年前の12代景行天皇期のヤマトタケルが東征の折に関東東北の地主神である味耜高彦根命を都々古山(西白河郡表郷村、健鉾山・立鉾山と呼ばれ神奈備型の404メートルの山。当社より北西5キロほどにあり、奥宮あり)に鉾を建てて祭られたのが創建であるという。(健鉾山祭祀遺跡として巨石等が残されており東北地方最大の祭祀遺跡とされている)
 51代平城天皇大同2年(807)坂上田村麻呂が伊野荘(現、棚倉城趾)に遷座。社殿を造営してヤマトタケルを相殿に配祀。寛永2年(1624)に丹羽長重が、棚倉城築城に際して、現在の馬場の地に遷座し、旧社殿を解体移築。現本殿は文禄年間(1592−1595)に豊臣秀吉の命で常陸の佐竹義宣(佐竹義重の長男)が造営したもので、桃山時代の風を良く伝えている。拝殿は承応2年(1653)、随神門は元治元年(1864)の建造という。明治6年に国幣中社に列せられている。
 中世以来、陸奥一の宮近津大明神都都古和気神社と称していたが国幣中社列格時に「別」の字が用いられるようになり以来「都都古別神社」とした。昭和20年に国幣社が廃止されてからは、旧来の「都都古和気神社」としている。(ゆえに文中の「都都古和気」と「都都古別」は同一のものとする)

 市街地の西端、小富士山(447メートル)と呼称される山の南東麓に位置している社で、神域は鬱蒼とした古杉に囲まれている。アスファルトを歩いている時は杉花粉の洪水な私も、覚悟を決めて杉の古木の密集する社に足を進める。花粉症も忘れてしまうような古風な神の森。国幣中社の神社。それなのに誰もいない。まったく無人の神社。参拝者は無論、神社の人すらもいない国幣中社。意外だった。なんともいいがたい夢現の空間。この空間だけが忘れ去られたかのように目の前に広がる。幾多の神社の中でもこれほど質素な国幣社というのは見たことがなかった。この参拝をした瞬間に「都都古和気神社」に魅了されてしまった。空間に埋没し自然と同化した古風で本来の「神社」というべき理想の姿が私の目の前にあった。
 私は参拝しながらなやむ。どうしても「都都古和気神社」が二社あるのがわからない。そして執筆中の今もわからない。明確な答はないのだろう。たとえば下野一の宮の「日光二荒山神社」と「宇都宮二荒山神社」はそれぞれの由来もはっきりしていてそれほど混乱することはない。(個人的に下野一の宮は宇都宮二荒山神社だと思っている)しかし奥州一の宮「都都古和気神社」はどうにもわからない。延喜式内社が不明というのは良くある話である。しかし延喜式内明神大社の国幣中社、そして一の宮とされる神社が二社どちらともいえず並立しているのはどうなのだろう。

馬場都都古和気神社
馬場都都古和気神社
馬場都都古和気神社随神門
馬場都都古和気神社随神門
馬場都都古和気神社拝殿
馬場都都古和気神社拝殿
馬場都都古和気神社本殿
馬場都都古和気神社本殿


 「八槻都都古別神社」に行こうかと思う。問題はどうやって行くかということであった。今いる「馬場都都古和気神社」(馬場は和気、八槻は別と呼称)から駅前までは約1キロ。磐城棚倉駅からは6キロほど南にくだったところにある。最寄り駅は磐城棚倉駅から2駅先の近津駅から徒歩10分という場所ではある。しかし水郡線は来ない。来るのは棚倉駅14時51分という私が帰る予定のダイヤしかない。その次はなんと16時54分だったりする。11時過ぎに棚倉に着いていろいろ見聞して現在時刻は13時すぎ。時間はある。場所も大体わかる。しかしバスの便を待つ(これも水郡線と変わらない間隔)ほど悠長でもない。ならどうするか。普通なら駅前のタクシーに乗り込んで「八槻明神までお願いします」といえば問題ないだろう。しかしそんな気は最初から持っていない。とにかく節約第一の心で「一時間程度なら歩けるだろう」という軽い気持ちで歩き始める。
 延々と続く直線の道。歩き始めて早々に後悔するが前に進んでしまったので引き返すことはすでにできない。どう見ても車しか走っていない道をただ1人、悠然と歩く。悠然というほどでもないが、トボトボと早歩きで歩く。日本語が矛盾しているが、それほどの気狂いのように歩く。いつまで歩いても「らしさ」がない。果たして自分の歩いている道のりは正しいのだろうかと不安になってくる。30分ほど歩いても道は同じ雰囲気しか感じない。
 間近にあったコンビニに立ち寄り道を尋ねる。「すいません。八槻の都都古別神社に行きたいんですけど、この先どのくらいでしょうか?」コンビニ店員は困惑しながらもそこは地元の人。「この先を真っ直ぐ行ってすぐちかくですよ。信号2つ先にあります。そうですねえ。車で飛ばせば3分で着きますよ」とのこと。内心で思う「徒歩なんですけど」と言いかけた口をつぐみ、ひとまず礼を述べる。確かな情報は二つ。道は間違っておらずこの先にあるということ。飛ばしまくっている車のペースで3分なら、3キロということ。つまり、あと30分は歩かなくてはいけないということ。この二つが分かっただけでも良しとしよう。(3キロで信号2つというのが田舎の尺度?)
 しばらく進むと、集落の中に入った気がする。近津の集落のようであり、近津の小学校もある。さらにその先には山本不動尊から流れてきた宮川という清流が流れており、その先には鬱蒼と繁る森があった。ここまでくればもう問題ない。疲れも吹き飛び足早に駆けよる。苦労も多ければ喜びも多いの典型的な例であった。



「都都古別神社」
(つつこわけじんじゃ・式内明神大社論社・陸奥一の宮・国幣中社・八槻都都古和気神社・八槻明神)
御祭神:味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと・オオクニヌシの御子。関東、東北の郷土開発に尽くされた神)
配祀神:日本武尊(やまとたけるのみこと)
 都都古別神社としての由来は馬場も八槻もまったく同一。ただ八槻に関しては「陸奥風土記」逸文にヤマトタケルが槻矢と槻弓でもってこの地のまつろわぬ土蜘蛛八人を退治したときに八本の矢がすべて芽をふさいだので八槻郷と呼んだとされている。槻は古代の聖木でもあり、この伝承は当社と関係があるのかもしれない。

八槻都都古別神社
八槻都都古別神社
八槻都都古別神社随神門
八槻都都古別神社随神門
八槻都都古別神社拝殿
八槻都都古別神社拝殿
八槻都都古別神社本殿
八槻都都古別神社本殿


 久慈川上流には味耜高彦根命を祭神とする「都都古別(和気)」「近津」「千勝」「智賀津」と称する神社が幾つか分布している。馬場・八槻両社が論社となっている延喜式内明神大社「都都古別神社」や八槻の分霊とされる「近津神社」、石川郡石川町の式内小社「石都都古別神社」、同社の境外摂社「近津神社」、石川郡玉川村の「都都古別神社」、東白川郡表郷村の「都都古山神社」等々があるという。それらのうちでも久慈川の流れに沿って「馬場都都古別神社」を上の宮、八槻を中の宮、そして茨城県久慈郡大子町の近津神社を下の宮ともいうという。
 いつのころから馬場と八槻の二社が併存するようになったかはわからない。古くから「近津明神」と称していた馬場・八槻の両社はともに陸奥一の宮・式内明神大社「都都古和気神社」であることを譲らなかった。明治維新後、明治四年の太政官府によって馬場の近津明神が「式内社・都都古和気神社」とされ国幣中社に列せられたときに、八槻の近津明神が猛抗議。大論争の末、一時は両社合併説も飛び交うが、明治十八年に「両社並立」という異例の処置によって八槻の近津明神も国幣中社に列せられ、一応の解決をみた。(このような下世話な話は当然、神社の由緒書きや案内には書かれない)
 素朴な疑問がある。なぜ「ツツコワケ」というのか。これらの神社がある地域ではモミを入れたワラツト(ワラの包)を供える風習があり、このワラツトを「ツトコ」あるいは「ツツコ」と呼び、参詣者は自分のツツコを供えるとともに、他人のツツコを受けて帰り、翌年作柄に関係なくツツコを倍にして供えるという。これらの風習は現在では絶えているが八槻では秋祭り(霜月祭)の際に収穫を終えた農家がモミをツツコに入れて供えるとともに、他の人の供えたツツコを「チカツサマのお種」として受けていき、翌年はツツコを二個にしてお返ししたという。こうした信仰で様々な品種が飛び交い、自然な品種交換が行われてきた。この祭は広域に渡り、郡山周辺・岩瀬郡・田島郡・会津各地・茨城北部にまで及んでいたという。馬場の方でも盛んであったが、こちらは明治の頃に農産物の品評会のようになってしまったという。つまり祭礼で「ツツコ」を分けてきたから「ツツコワケ神社」という。この「ツツコワケ神社」という神社の言霊は真に美しいと思うのは私だけではあるまい。
 またこの祭事とは別に八槻では「御田植祭」という芸能化されていない古代性を伝える神事がおこなわれている(旧暦一月六日。)ほかにも八槻の「太々神楽」「七座神楽」や馬場の「太々神楽」「五人神楽」等、両社ともに名社に恥じぬ伝統と民俗行事を誇り、なおかつ社宝も多い。

 「馬場」と「八槻」。いずれが真実の式内社かも、いつから二社になったのかすらもわからない。わからないけど、それも地元で培われた中世以来の長い年月の信仰の形であろう。由来が分からず、二社あるならそれで構わない。諏訪大社の二社四宮とは趣はちがうけど「都都古別神社二社」で良いであろう。
 境内配置は若干違い「馬場都都古和気神社」は「随神門」(「陸奥国一の宮」扁額あり)を抜けた先の「鳥居」の内側に社殿があり、それを塀が囲むというレイアウト。一方で「八槻都都古別神社」は鳥居の先に「随神門」(「奥州一の宮」扁額あり)があり、その内側に社殿があり、それを塀で囲んでいた。私の感性では八槻に「荘厳」を感じ、馬場では「静寂」を感じた。それは八槻が朱塗り、馬場は古風な木造の味わいが出ていたかも知れない。
 八槻の脇には国道が走りいささか騒がしい。それでも川岸の森厳たる古色蒼然のやしろを感じる。八槻は「動」を感じ、一方の馬場は山の麓で「静」を感じる。この二社を巡ることで「二社並立の歴史」をも体感する。下世話に「どちらが本物だ」だと議論するのは無用であった。ただその空間に身を置けば、真実などというものは空虚でしかなかった。


 14時57分。待合室とホームしかない無人駅から水郡線に乗り込む。この列車が水戸に着くのが16時55分。あと二時間も揺られなくてはならない。奥州の要所である棚倉も昔日の面影はなし。常陸の雄佐竹氏と奥州の雄伊達氏が棚倉でにらみ合い、関東守護の要所として会津−白河−棚倉−磐城平ラインの一角をしめていた奥州棚倉も、今では歴史に埋もれたかのように佇んでいた。静かな時間が流れていた街であった。真新しいことはないけれども、いろいろ学んだような気がする。もうすこし余裕が出来たら、また再訪したい。そう思わせる良い街であった。
 水郡線は長閑だった。まぶしいばかりの夕日が射し込む。八溝山をぬうように進む。久慈川に沿って、常磐の地へと進む。退屈を絵に描いたような車窓。古色とした日本の風景をそこに見る。退屈な如何にも日本的な風景を、悠久の時とともに呆然と望む。これこそが一番の贅沢なのかも知れない。ただただ眠くなりながら至福の時を満喫する。



あとがき
 原稿用紙換算約35枚。狙っているわけでもないけど、「房総編」「水戸編」は約30枚。そして今回は35枚。だいたいこのぐらいでおさまっている。
 棚倉は予想通りに良い街でした。東北らしい静かな息づかい。忘れ去られた城下町。世間から埋没した神社。羨ましいばかりに良いところでした。やっぱり福島県はいいなあ。私は本籍福島県の人間。福島をあなどるなかれ、とのことで。
 しかし、あいもかわらず伊達の記述が多い。「東北本線城跡紀行」と合わせれば、沿線の中世伊達氏が把握できるような。
 次は「諏訪大社編」と「日光宇都宮編」を予定。しかし書いてる暇がなし。5月6月まで書けるかどうか・・・。もっとも諏訪大社や東照宮や二荒山神社ともなると有名なので私が気炎を吐くまでもない。私は、地味な歴史や神社を発掘するのが好きなので、これらは対象外(笑)。ゆえに気合い抜けして書く気が湧きません(苦笑)。


参考文献
伊達政宗 山岡荘八著 講談社
日本の神々 神社と聖地12 東北・北海道 谷川健一編 白水社
郷土資料事典7 福島県 人文社
角川日本地名辞典7 福島県 角川書店
他、各神社御由緒書き、及び案内解説版等





附記
「安達太良神社」(あだたら神社・県社・安達郡総鎮守)

御祭神:
高皇産霊神(タカミムスビ神・造化三神の一・前述
神皇産霊神(カミムスビ神・造化三神の一・前述
飯豊別神(イイトヨワケ神=甑〈こしき〉明神・安達太良山の神)
飯津比売神(イイツヒメ神=矢筈〈やはぎ〉明神・安達太良山の神)
小陽日温泉神(オユヒユセン神=剣明神・安達太良山の温泉神)
禰宜大刀自神(ネギオオトジ神=船明神・安達太良山の神)
宇名己呂別神(ウナコロワケ神=安達太良山支峰である大名倉山の神)

 もともとはタカミムスビ神・カミムスビ神を祀る社として安達太良山麓に鎮座していたが、久安2(1146)年に現社地(安達郡本宮町)に遷座。遷座の際に新たに安達太良山(1700M)の神々である甑・船・矢筈・剣明神とともに安達太良山支峰である大名倉山(576M)の神である宇名己呂別神(ウナコロワケ神)を勧進し、安達太良明神と称したという。これにともない、本目村と呼ばれていた当地は本宮村と呼称されるようになったという。
 遷座以来、安達太良山の遙拝殿として機能し、山に対座する小高い丘の上に鎮座している。大正4年に県社に列格。現在の社殿は文化13(1816)年の造営とされている。
 当社を式内社とみる説もあるが、確証はない。ただ、陸奥安積郡(安達郡独立以前は安積郡に属していた)の延喜式神明帳安積郡3座のうち、安達太良山の神である宇奈己呂和気神(ウナコロワケが転化して安達太良山支峰である大名倉山となったとされている)と飯豊和気神を祀っている神社が当社であることだけは確かである。

安達太良神社参道
安達太良神社参道
安達太良神社拝殿
安達太良神社拝殿
安達太良神社本殿(保護用の小屋の中)
安達太良神社本殿(保護用の小屋の中)
安達太良神社・拝殿上の社号額と龍の絵画
安達太良神社・拝殿上の社号額と龍の絵画


 たまたま福島に行く用事があった。用事が終わってしまえばどこかに行きたくなるのが私の悪い癖。このまま家路に着くのは面白くない。第一、急いで帰るほどの用事は家にはない。せっかく福島県にいるのだから、福島の神社に寄り道しようかと思う。
 東北本線を南下する。「松川駅」で国鉄川俣線の廃線跡(架線だけは張り替え研修のために一部新品)に接しながら右手に安達太良山を望む。神々しいまでの山裾を眺めながら安達太良山麓の「二本松駅」で昔の旅路(東北本線城跡紀行)の苦渋を思い出す。今思えば「二本松」の地ですら懐かしい。
 しばらく南下して目的駅である「本宮駅」で下車。ここまで来れば福島よりも郡山の方が近く、郡山駅から数えて三駅。
 駅前の地図で「安達太良神社」の所在を確認して歩く。駅前から北上して安達太良川を横断する。この安達太良川と阿武隈川が合流する地点のほど近く、駅前から徒歩10分ほどの小高い丘の上に「神社」は鎮座している。
 神社のほど近くにある石碑に「明治天皇本宮行在所祉」とあった。昭和10年に建てられた碑ではあるが、単純に「明治天皇がいらっしゃったのかあ」という印象以外に抱くものはない。

 鬱蒼とした神域は樹齡200年以上に及ぶ杉や檜に覆われている。駅前から足早に歩いた上に、背広姿という非調和的な格好ではあったが、石段を踏みしめ「やしろ」に向かう。16時にならんとする時間で、あたりは一日の終わりに近づくかのように静まりかえっていた。
 拝殿に接する。予想以上に落ち着いた社殿で、この樹齡200年に囲まれている人工物であっても、浮き出ることなく自然と調和している。拝殿から裏手にまわって本殿を眺める。本殿自体は非常に控えめで小さな社。いまにも朽ち果ててもおかしくないぐらいに古色めいていて、時代を感じさせてくれる。文化13年といえば、今から約200年前。風雨に堪えてきたやしろは保護用の小屋に覆われて、今の世に姿を伝えていた。

 本殿から裏へと道が繋がっている。道の先は小さな広場となっていて、樹木の先には安達太良山が望める。立地的には望めるはずではあるが、最早夕刻。雲に覆われ、小雨も降り始める。安達太良山の面影だけを観じながら、そろそろ帰らなくては行けない刻限に近づいてきた。



附記あとがき
 安達太良神社を追記しました。本来なら、奥州棚倉とは別物ですが、安積国造神社及び安積郡に言及している関係上、安達太良神社も安積郡に含め、追記という形をとりました。
 次回作は、「神のやしろを想う・多摩の古社編」を予定しています。それが終わってから、本腰を入れて「諏訪」に入ります。やはり、神社の格も諏訪の官幣大社クラスともなると気が重くて筆を執る気が起きない。その点、多摩の古社は郷社なので気楽(笑)。
 なお、参考文献は本記と同じです。


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