国譲り交渉の成功
このような事態になってしまったので、アマテラス大御神(前述)は「次はどの神を遣わせばよいか」と仰せられた。オモヒカネ神(前述)や、やおよろずの神々は「天安河の河上の天岩屋においでになる伊都之尾羽張神(いつのをはばりのかみ=前述=アメノヲハバリ神)をお遣わしになるのがよいでしょう。もしこの神でなければ、その神の子である建御雷之男神(たけみかづきのをのかみ=前述)を遣わすのがよいでしょう。またアメノヲハバリ神は天安河の水をせきあげて道をふさいでいるから他の神々は行くことが出来まい。天迦久神(あめのかくのかみ)を遣わして尋ねるのがよいでしょう。」と申し上げた。
そこでアメノカク神を遣わしてアメノヲハバリ神に尋ねると「畏れ多いことで、御用命には感激いたしましたけれども、この事は私の子であるタケノミカヅチ神を遣わすのがよいでしょう」と申し、ただちにタケノミカヅチ神に天鳥船神(あめのとりふねのかみ=前述)を添えて葦原中国にお遣わしになった。
天迦久神
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あめのかくのかみ
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・アメノヲハバリ神のもとへいった使者
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経津主神
香取神
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ふつぬしのかみ
(かとりのかみ)
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・日本書紀によるとタケノミカヅチ神とともに交渉に向かう神
・古事記によるとタケノミカヅチ神と同神らしく扱われている
・フツヌシ神は本来、物部氏の氏神。物部衰退以降に中臣氏が守護神として取り込んだためフツヌシ神の影響力が小さくなり、かわりにタケノミカヅチ神が藤原氏の政治的権力を背景に神話に入り込み国譲りの主役になったとされている。
・香取神宮(官大、千葉香取)春日大社(官大、奈良)枚岡神社(官大、大阪)大原野神社(官中、京都)石上神宮(奈良)一之宮貫前神社(群馬)
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タケノミカヅチ神とアメノトリフネ神は出雲の浜に降り立った。タケノミカヅチ神は長い剣(十柄の剣=のちに東征中の神武天皇に授けられる)を逆さまに波の上に刺し立て、刃先の上にあぐらでお座りになって、オオクニヌシ神(前述)に向かって「アマテラス大御神とタカギ神との御言葉で、お前を問いただすために私をお遣わしになった。お前が占めている葦原中国は、本来は我が子の治める国であると、御子にお委せ遊ばれたのだ。お前はどう思っているか。」とお尋ねになった。
オオクニヌシ神は「私はお答えできません。子供の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ=前述)が代わりにお答えしましょう。しかし鳥や魚を捕りに御大崎(みほのみさき)に行っており、まだ帰っておりませぬ」と申し上げた。
そこでタケノミカヅチ神はアメノトリフネ神を遣わし、コトシロヌシ神を召してお尋ねになると「畏れ入りました。この国は天つ神の御子に奉りましょう。」と言い、身を引いて隠れ去ってしまった。
タケノミカヅチ神はオオクニヌシ神に対して「お前の子のコトシロヌシ神はこのように申しているが、他に心のうちを申すべき子がいるか。」とお尋ねになった。
オオクニヌシ神はそこで「わが子に建御名方神(たけみなかたのかみ)と申す神がおります。その他にはございません。」と申した。
そこへちょうどタケミナカタ神が、千人がやっと動かせる大石を手に軽々と持って現れ「俺の国にきてこそこそものを言っているのは誰だ。ならば俺と力競べをしよう。」といってタケミナカタ神はタケノミカヅチ神の手を取ったが、その手をたちまち氷に変えられてしまい、続いて剣の刃に変えた。これをみたタケミナカタ神は恐れて退いてしまった。すると今度はタケノミカヅチ神がタケミナカタ神の手を取るやいなや若草のように投げられてしまったので、タケミナカタ神は慌てて逃げ出すが信濃国の諏訪湖に追いつめられてしまった。タケミナカタ神は「畏れ入りました。どうぞ命だけはお助け下さい。わたしはこの地以外どこにもいきませぬ。また父のオオクニヌシ神や兄のコトシロヌシ神の御言葉にも背きません。この葦原中国は、天つ神の御子の仰せられるままに差し上げます、」と申した。
建御名方神
諏訪神
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たけみなかたのかみ
(すわのかみ)
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・オオクニヌシ神と越の沼河比売神(前述)の子という(旧事記)
・こちらも藤原氏のタケノミカヅチ神の武威を高めるためにおとしめられた神とされている
・もともとは有力な軍神、武神であり東日本を中心にその武威、神威がとどろいている
・諏訪大社二社四宮、上社・・・本宮、前宮、下社・・・春宮、秋宮(官大、長野諏訪)他、全国各地の諏訪神社
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八坂刀売神
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やさかとめのかみ
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・タケミナカタ神の妻
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そこでタケノミカヅチ神は、再び戻りオオクニヌシ神に向かい「お前の子供、コトシロヌシ神とタケミナカタ神の二柱の神は『天つ神の御子の言葉に従います』と申した。お前の心はどうか。」とお尋ねになった。オオクニヌシ神は「わが子二柱の神の申します通り、私も従います。この葦原中国は御言葉のままに奉りましょう。ただ私のすみかを、天つ神の御子の御位におのぼり遊ばすような輝かしい、高天原に向かうような宮柱でお造り下さいましたら、私はその奥の奥に隠れておりましょう。また子供の百八十の神々はコトシロヌシ神が天つ神の御前にお仕え申し上げましたら、誰もそれに逆らう神はございません。」と申した。
こうして出雲の杵築の地に宮殿を造営し、水戸神(速秋津日子と神速秋津日売神=前述)の孫である櫛八玉神(くしやたのかみ)が食物を司りご馳走を奉じ、歌をうたった。
そこでタケミカヅチ神は、高天原に帰り、葦原中国を平らげたことを報告なさった。
櫛八玉神
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くしやたのかみ
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・速秋津日子と神速秋津日売神=前述の孫
・食物を司る神
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日本書紀によるとオオクニヌシ神が国を譲った後も最後まで服従しなかった神として星の神である香香背男(かがせを)がいたという。日本神話の中で星の神があらわれることはほとんどなく例外的存在とされる
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国つ神であるオオクニヌシ神は出雲の地を天つ神に譲ったわけではなく、日本一円の葦原中国全体を天つ神に譲り、その統治の中心地である出雲の地の政祭を司る立場(出雲大社)になったと考えることが出来る。
こうして、いよいよ天孫降臨の舞台が整ったことになる。
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