「武蔵の古社を想う/江戸の古社編」
<平成15年1月参拝・平成15年1月記>
目次
「王子神社」/「根津神社」/「白山神社」/「芝大神宮」(以上四社は准勅祭社に列した「東京十社」)
「御田八幡神社」(延喜式内「ヒエタ神社」論社)
<武蔵国の延喜式内社(ヒエタ神社)に関してはこちら>
時間がある時に神社巡りをしようと思う。最近はサイトのために神社を詣でている気もし本末転倒の様相を来しているが、近場の神社を勢いで参拝。今回は「東京十社」の四社と、式内論社一社を一日で巡拝。いささかつかれた。
ちなみに東京十社とは過去に掲載している「日枝」「氷川」「品川」「神田」に、今回の「王子」「根津」「白山」「芝」。そして今後参拝予定の「亀戸」「富岡」の准勅祭社10社のことをいう。なお今回もう一社掲載している「御田八幡神社」は延喜式内論社なのでちょっとだけおもむきが違う。
「王子神社」
(准勅祭社・東京十社の一・東京都北区王子本町鎮座)
祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大御神・速玉之男命・事解之男命
五神を総称して「王子大神」と称す
元享二年(1322)にこの地の領主であった豊島氏が熊野から勧進したことに始まる。
徳川時代には飛鳥山の寄進などもあり、歴代将軍に崇敬されてきた。また春日局が当社に祈願し、家光の将軍就任が叶ったことから「子育大願」の神社としても信奉をあつめている。
明治元年には東京を守護する東京十社として「准勅祭社」に任ぜられ東京北方の守護として鎮座している。
境内には髪の祖神として「関神社」が鎮座している。祭神は蝉丸・逆髪姫・古屋美女。蝉丸は百人一首に収録されている「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な僧侶。
蝉丸は延喜帝の第四皇子。髮の毛が逆髪であった姉君のために侍女の古屋美女に命じて「かつら」を考案したことから「髪の祖神」として崇敬されている。もともとは近江逢坂の地に祀られていた「関蝉丸神社」を江戸期に王子神社境内に勧進したことにはじまる。
|
|
|
左上:王子神社正面
上:王子神社拝殿
左:境内社、関神社
別に髮の毛には困っていませんが。
蝉丸というのがおもしろいかな、と。
左後方が「毛塚」 |
JR王子駅から良く整備された小道<親水公園>を歩くこと五分程度で到着。この付近は飛鳥山に代表される江戸の面影が色濃く残る地域であり、のんびりとしたいときにはいい感じの雰囲気。実は私は、今回初めて王子駅で降りたのだが、どうやら「桜の季節」に来たくなるようなそんな気配。実のところは「都電」に乗りたくなったともいうが。
王子神社は極々普通の感覚。目立った欠点も特徴もない。多少広めの境内で、どっしりと構えた拝殿がある。たまにはこういう神社もある。書くことがないし、由緒も調べきれていないが、致し方がない。
ちなみに社号標は昭和12年。石鳥居や社殿は昭和57年の造営。
適度に参拝して次の神社に行こうかと思う。
「根津神社」
(府社・准勅祭社・東京十社の一・国重文社殿・文京区根津鎮座)
<御朱印>
祭神:須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主神・菅原道真公
約1900年余前に日本武尊が東夷平定に当たって武神スサノヲ神を千駄木の地に創始したことにはじまるといわれる古社。文明年間(1496−87)には太田道灌が社殿を造営している。
江戸時代、五代将軍綱吉が世継を定めた際に現在地に社殿を造営。現在地は甲府宰相・松平綱重(綱吉の兄)の山手屋敷であり、六代将軍となる家宣生誕の地であった。兄の子を養嗣子と定めた綱吉は氏神根津神社を屋敷に献納し宝永3年(1706)に天下普請と呼ばれる大造営を行った。現在の社殿・唐門・楼門・透塀等が当時の建造物であり権現造神社建築を良く残すものとして国重要文化財に指定されている。
境内地の「つつじヶ岡」は神社が遷座する以前の徳川綱重が屋敷の庭に植えたことにはじまる七千坪の神苑。
六代将軍家宣は幕制をもって当社の祭礼を定め正徳4年(1714)に奉納された大神輿三基が現存している。日枝の山王祭、神田の神田祭、根津の天下祭は「江戸の三大祭」と呼ばれている。
明治後は准勅祭社、府社に列格。東京十社のひとつ。
北口鳥居。
社号標のある正面大鳥居はデジカメデータが破損(泣) |
国重要文化財・根津神社楼門
国重文の社殿は宝永3年(1706)造営 |
国重文・根津神社唐門と透塀 |
国重文・根津神社拝殿 |
|
左:根津神社本殿(国重文)
透塀のすきまから撮影、とか。
左下:根津神社燈籠(国重文)
下:根津神社扁額
根津神社で「卍」がしつこいほどに目につく
下にも「卍」がみえるかと
ただ神社由緒では仏教系の影響が見いだせないのだが |
|
|
王子駅から南下して西日暮里で地下鉄千代田線に乗り換えて、「根津駅」下車。徒歩5分程度で境内に到着。正面の大鳥居を抜けると左斜めに二の鳥居があり、その左側はつつじヶ丘で右側が神池。そして二の鳥居の向こうに楼門。楼門の上には鳩が集まっている。楼門の奧には唐門と独特の透塀があり、その透塀にかこまれたところが社殿。典型的な権現造りは徳川綱吉のころの造営。権現造り独特の赤が美しかった。ただ社殿にそよ燈籠にせよ見渡すと「卍」の模様がよくみえる。楼門のある古社は「仏教寺院」の影響をうけたものというが、ここには特に仏教的な匂いはない。江戸期の造営の時はよほど仏教の影響下にあったのだろう。そんな感じがする。
境内は周辺住民の憩いの場として機能しており、休んでいる人や画を描いている人がおおい。あと気になったことが白衣姿が多いということ。この白衣が神社の雰囲気と奇妙な光景をつくっている。どうやら医科大学があることに起因するらしく、北門周辺には薬局などが多くある。
根津神社から10程度歩くと地下鉄白山駅の近くに「白山神社」がある。
「白山神社」
(准勅祭社・東京十社の一・・文京区白山鎮座)
祭神:菊理姫命(くくりひめ命)・伊弉諾命・伊弉冉命
62代村上天皇の天暦2年(948)に加賀一の宮白山神社を本郷元町の地に分霊したことに始まる。建武4年(1338)には足利尊氏によって国家平安の御祈願所に命ぜられる。
元和2年(1616)に徳川秀忠の命によって小石川白山の地に遷座。のち明暦元年(1655)に白山の現在地に移奉された。元禄16年(1702)に火災全焼。再建後の享保3年(1719)にも火災によって社殿消失。その後本殿のみが再建。
明治維新後に准勅祭社に命ぜられ明治32年に拝殿が建立。
なお白山の地名は元白山社地であることからであり、小石川は加賀国石川郡より白山社を勧進した旧地からのもの。
|
|
|
左上:白山神社鳥居
上:白山神社拝殿
左:白山神社本殿 |
根津神社から西に一キロぐらい歩くと狭い路地に狭い鳥居がみえてくる。周辺の敷地は限界らしく鳥居の先の右側にかなり窮屈な拝殿がある。一見寺院風の社務所が隣接している。ちょうど何かの祭礼をなかでおこなっているらしく御由緒を貰おうとするも応対できないと氏子さんに断られる。狭い狭いと感じていたが拝殿前の参道を圧迫しているのは駐車場らしい。なにやら境内に駐車場を限界まで配置している感じ。拝殿と社務所を結ぶ通路の下をぬけると本殿が拝見できる。ちょうど本殿を囲むように公園が整備されており、ながめるのには最適の環境。
でもそれぐらい。拝殿前の参道から拝殿方向をみると社殿の後ろに帽子のようなものを被った大学の巨大なビルが目に入り神社景観を台無しにしてくれる。それこそ靖國神社後方の法政大学よりもひどい景観を見せてくれる大学は東洋大学、とかいう私がもっとも近寄りたくない大学。この大学の文学部で私の名前を出すとなにかと良くない現象が待ち受けているので・・・。
地下鉄都営三田線白山駅から南下して途中大手門駅で下車して皇居坂下門で御記帳に参列したりしたあとに江戸城の北方から南方に移動。具体的には浜松町駅で下車をすると駅近くに「芝大神宮」がある。
「芝大神宮」
(府社・准勅祭社・港区芝大門鎮座)
祭神:天照皇大御神・豊受大神
相殿:源頼朝公・徳川家康公
ほか16柱を合祀
芝大神宮は伊勢神宮の天照大神(内宮)と豊受大神(外宮)の二柱を主祭神として祀り、第66代一条天皇の寛弘2年(1005)の創建という。創建当初の鎮座地は飯倉山(現在の芝公園丸山)。慶長年間(1596−1615)に現在地に遷座。関東のお伊勢様(芝神明社)としてはもっとも古い部類の神社。
明治期に准勅祭社に命ぜられ、社格は府社。
芝大神宮・正面 |
棟持ち柱がある神明造りの御手水舎は珍しいとか |
浜松町駅から徒歩5分程度。第一京浜道路に面したところに入口がある。この神社は格段と狭い神社。ビルやらなにやらに埋もれていて、なにやら写真レイアウトもこまってしまうぐらいにどうしようもない。この神社に到着したとたんに思わず疲れが湧き出てきたのも致し方がない。
ところが社務所はしっかりとしており、さらには神職だけではなく巫女さんまで常駐していた。今日の神社では根津神社ですら神職しかみていないのに、ここに巫女がいるとは想定できなかった。もっとも巫女がいるからどうした、という事ではあるが何となく嬉しいので巫女さんから御由緒書きを頂く。ところがこれにほとんど「由緒」が記されていないので、今困っているのだが。
どっとつかれたのでもう帰ろうかと思った。これにて東京十社のうちに八社は参拝済み。のこる「富岡」と「亀戸」はいささか方向が違うのでまたの機会となるだろう。ただこの近隣でどうしても行きたいところが「御田八幡神社」。東京十社とは関係ないが、武蔵国延喜式内「ヒエタ神社」の論社として詣でておきたい神社。
田町駅は慶応大学の駅。ましてや「三田」に鎮座しているのでどうしても慶応大学。今日は東京大学近くの根津神社に、東洋大学近くの白山神社とどうも学生街にえんがある。そういう神社は立地環境がよろしくはないのだが。
田町の駅からなんとなく歩いていたら道に迷った。あとから考えれば迷いようもない場所に鎮座しているのだが控えてあった住所が間違っていたために本当に慶応大学の学生に飲まれて大学の前まで来てしまう。思わずコンビニにたちより港区の地図を確認すると、困ったことに第一京浜に面したところに鎮座していた。それなら駅前の大きな道路ではないか、ということで結局駅前に戻って、神社探訪をやりなおす。
「御田八幡神社」
(延喜式内論社・郷社・港区三田鎮座)
祭神:誉田別命(応神天皇)・天児屋命・武内宿禰(たけうちのすくね)
和銅2年(709)創祀とされ延喜式内「稗田神社」とされる古社。
一条天皇(位986−1011)の寛弘年間(1004−12)には武蔵国御田郷の総社とされ嵯峨源氏渡辺党の氏神として崇敬され、渡辺綱(源頼光の四天王のひとり。頼光に従い洛北や羅生門の鬼や大江の酒呑童子を退治したという説話がある。)の産土神として俗に「綱八幡」とよばれた。
江戸期には徳川家康が元和二年(1616)に参拝し源氏の白旗を奉納。社宝として「渡辺綱の羅生門禁札」と「源氏の白旗」が伝わっている。
古くは稗田神社・御田神社・三田八幡宮・綱八幡などと称されていたが、明治維新後に三田八幡宮別当僧が神主職となり「稗田神社」と社号を変更。郷社に列格。のちに「御田八幡神社」と改称した。
御田八幡神社正面 |
御田八幡神社拝殿 |
田町駅から第一京浜道路を10分ほど歩いて南下すると右手の高台のほうに社殿があるのがわかる。入口はビルに囲まれていて圧迫感を感じる参道であるが、その奧に台地上の社殿がある。
第一京浜道路は徒歩の人間としては好きではないがそれでもかなり縁がある。さきほどの「芝大神宮」をはじめ、以前参拝した「品川神社」「磐井神社」「稗田神社」「六郷神社」もすべて第一京浜沿線に鎮座している。それほどに東海道の主要な街道であったということは理解できる。
夕方の裏寂れた雰囲気。静かな境内でぼーっとする。もっとも何もすることがなかった、ともいうが。最近は式内論社を探訪することが目的と化しており、この目的が神社を参拝したとたんに達成されてしまい、あげく町中の小さな神社では見聞するところも少なく途方に暮れることが多い。ただ、そんな「途方な感じ」が好きだったりもする。
そんな感じで、今回もここでおしまい。
<参考文献>
各神社の案内・説明看板
各神社発行の御由緒書き
御田八幡神社社報(平成十五年一月発行)
|