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「東総九十九里の神社御朱印紀行」

<平成22年12月参拝 23年8月記載>

01「水神社」    (匝瑳市春海)
02「老尾神社」   (匝瑳市生尾・下総国延喜式内社・旧郷社)
03「金刀比羅神社」 (山武市松尾町八田)
04「五所神社」   (山武市蓮沼・上総国山辺荘総社・旧郷社)
05「橘樹神社」   (茂原市本納・上総国二之宮・上総国延喜式内社)
06「三之宮神社」  (長生郡睦沢町・上総国三之宮)
07「玉前神社」   (長生郡一宮町一宮・上総国一之宮・上総国延喜式内名神大社・旧国幣中社)
08「神洗神社」   (長生郡一宮町綱田・上総国一之宮元宮)
09「中原ノ玉崎神社」(いすみ市岬町中原・上総国一之宮元宮)

<以下は日没後>
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10「玉崎神社」            (旭市飯岡・下総国二之宮)
11「銚港神社」            (銚子市馬場町)
12-13-14「東大社・豊玉姫神社・雷神社」(式年銚子大神幸祭の三社)
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すでに半年以上前のことを書こうとしても、まあ基本的には覚えていないわけで。

昨年のオフでもお世話になってた面々と、この年も東総の神社詣でオフをば。

メンバーは、神楽さん、赤城おろしさん、御津垣さん、門前人さん。
「関東の神社めぐり〜プチ神楽殿<http://kaguraden.blog11.fc2.com/>」の掲示板<http://www.kaguraden.net/patio/>でお世話になっている面々です。

すでに待ち合わせの時間すら覚えていないけど、御津垣さんと調布の布多天神社で待ち合わせ。午前4時過ぎ頃であったでしょうか。
そのまま御津垣さんの車に便乗。調布インターから首都高にはいりこみ銚子方面へ。

明けて午前6時30分、水神社に到着。


「水神社」<匝瑳市春海鎮座>

御祭神:水波能賣命(みずはのめのみこと)

太古、椿の巨木の倒れた跡に椿湖(つばきのうみ)があった。
江戸時代の中期、湖を開拓し干潟八万石と呼ばれる広大な田畑が誕生。

寛文11年(1671)に開拓が完了し、浄地に祀られたのが春海の水神社、鎌数の伊勢大神宮、高生の椿神社の「新田三社」。


社殿は右側に鎮座している

参道が90度折れる

水神社

朝早くからご苦労様です

水神社御本殿

拝殿前に積まれたお焚き上げ品

待ち合わせ前に寄り道してみた神社。
江戸期に開拓が行われた際に勧請された水神。最寄り駅も「干潟」というぐらいだし、水っぽい土地であることは容易に想像できる。
冬の朝。それも6時過ぎという早朝であるが、地元の人が入れ替わりに参拝をされている。
拝殿前にはお焚き上げに奉納するのであろう品々がうず高く詰まれており、郷土に足をつけたつけた神社であることをうかがい知ることができる。

このまま南下して、老蘇神社へ。そこが待ち合わせの神社なのだ。




老尾神社<延喜式内社・旧郷社・匝瑳大明神・匝瑳郡総社・千葉県匝瑳市生尾鎮座>
 (おうお神社・ろうび神社)

前回掲載記事

御祭神:
祭神:阿佐比古命(経津命(香取神)の御子神)
配祀:磐筒男命・磐筒女命・國常立命
一説に物部小事を祀るともいう。

創建年代は不詳。一説に崇神天皇7年とされる。
当社の祭神である阿佐彦命は香取神(経津命)の御子神であるという。香取神がこの地を平定した際に、御子阿佐彦命をこの地方に留めて守護神とならしめたとされる。
匝瑳郡の匝瑳一族は物部小事(もののべのおごと・5世紀〜6世紀に活躍した将軍・物部匝瑳連の祖・匝瑳国造の祖)の末裔とされており、物部小事が下総国を平定して匝瑳郡を建郡したと伝えられている。

正平24年(1369)社殿が炎上し宝物等ことごとく焼失。のちに領主千葉満胤らによって再興。千葉氏が衰えるとともに当社も衰退。
明治6年(1873)に郷社列格。

現在は八重垣神社が兼務し、代々の匝瑳氏が宮司を務めている。


老尾神社のご神木とご本殿

ご神木

<参考> 以前に頂戴した御朱印です

午前7時前。
待ち合わせの老蘇神社に。境内にはすでに神楽さんと門前人さんがいらっしゃってました。
さらりと参拝。

当初、老蘇神社を兼務されている八重垣神社の匝瑳宮司さんより御朱印を頂戴する話もあったが体すぐれないために御朱印はまたの機会にすることとなった。

 * 後日、平成23年4月にこの時アポを取る予定だった宮司様がお亡くなりになったと訃報がありました。
 * 上記掲載の御朱印は以前にその宮司様が達者だったときにいただいたものです。
 * 心よりご冥福をお祈り致します。

午前7時40分。老蘇神社をあとにして次の神社へ。南西に6キロほど進んだところに「金刀比羅神社」が鎮座している。




「金刀比羅神社」<山武市松尾町八田>

御祭神:大名持命

後醍醐天皇の延元2年(1337)10月、讃岐国の金刀比羅大神を勧進したことに始まる。
弘治21年(1557年)、当社の北方8丁あまりのところにあった坂田城の千葉氏族の井田因幡守友胤が金比羅大神を崇敬し祈願所とする。

江戸期は下総国成田山新勝寺の住職三池照法氏八田村長福寺を管理し、別当として金刀比羅神社を兼務していた。
明治期に神仏分離し今日に至る。
昭和4年に現在地に遷座。


金刀比羅神社御本殿
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波乗御朱印帳に頂戴した御朱印

<参考> 以前に頂戴した御朱印です

午前8時。金刀比羅神社に到着。
ここで新しい22社版の「波乗り御朱印帳」を頂戴する。メンバーが4人いて、御朱印を頂戴するわけだからそれなりに時間を要す。既にこのあたりからスケジュールの調整が必要だったようだが、当初は気がつかず、あとあとのスケジュールが難儀することとなる。
この時間からでも御朱印が頂戴出来たのは大助かり。

神社は国道126号線沿いに鎮座。ただし国道側は裏参道となっており、入口は旧道側。社殿は北西を向いている。
社殿はこの界隈の神社としては比較的に規模は大きい。境内も広く空間の広がりを感じられた。

8時25分。移動開始。




「五社神社」<旧郷社・山武市蓮沼イ鎮座>

御祭神:天照大日靈貴命(あまてらすおほひるめのみこと)
相殿神:誉田別命・表筒雄命・天児屋根命・素登織姫命

高倉天皇の承安元年(1171)に創建。上総国山辺の荘の総社。
明治元年、五所大権現と称されていた名称を五所神社に改称。大正11年郷社列格。
現在の本殿は天正2年、下総芦戸の城主木曽義純の造営。千葉県重要文化財に指定されている。


本殿覆殿

御祭神と相殿神4柱

8時40分。五所神社に到着。
こちらでは宮司様のご配慮により昇殿させて頂きまして、ご本殿を拝観。天正記に建立されたご本殿は桃山時代の様式を残しており絢爛。なかなかの見ごたえでした。宮司様、ありがとうございます。

さきほどの金比羅神社からは6キロほど南東。九十九里まではあと3キロという地に鎮座している。社殿も九十九里に面して南東を向き、社殿から約400メートルほど直線で離れたところに一の鳥居がある。

9時30分。五所神社を出発。次に目指すは上総二ノ宮「橘樹神社」。五所神社の地から一気に南下し途中の白子神社(白子町関)の森を垣間見ながら右折して内陸へ。すでに時間が押していたので今回は白子神社はスルーして一路南下する。




「橘樹神社」<延喜式内小社・上総国二の宮・旧県社・元勅祭社・橘樹神社・吾妻大明神・タチバナ様>

御祭神:
弟橘比売命(オトタチバナヒメ命)
日本武尊(ヤマトタケル尊)
忍山宿禰(弟橘比売命の父、相模国穂積氏)

ヤマトタケル尊が東征の際、走水の海峡を渡ろうとした際に海神の怒りを買い、身代わりとなったオトタチバナ姫命のためにヤマトタケル尊が墳墓を造り、櫛を収めて橘の木を二株植えたのが、当社の始まりという。

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かつての御由緒書の文章が旧かな旧漢字で格調高く感銘を受けたので、以下を一部転載したいと思う。
(漢字は新漢字に改める。)

上総国に渡り座さんとて走水より御船に在して海原へこぎ出し給へば暴風忽ちに起り浪激しく荒びて御船漂蕩危き事限なし御船の中に仕へ奉る相模国穂積氏忍山宿禰の女たる弟橘比売命こは海神の心なるべし妾尊に代わりて海に入りなん尊は御父 天皇の御大命を畏み事成竟給へと菅の畳八重絹の畳八重を荒れ狂ふ波の上に敷きなして下り立たせ給ふとき歌ひ給はく

 佐泥佐泥斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能(サネサネシ サガムノオヌニ モユルホノ)
 本那迦邇多知氏 斗比斯岐美波母(ホナカニタチテ トヒシキミハモ)

(訳)
 さねさし 相模の小野に 燃える火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも
 (相模の小野の燃える火の その燃え広がる炎の中に立って、私のことを思って呼びかけてくださった君よ、ああ)


と海中深く沈み入り給へば暴風忽ちに鎮まり荒波自らなぎ御船やすやすと上総の岸に着かせ給ひぬかくて七日を過ぐる後弟橘比売命の御櫛岸辺に漂ひ着きたるを日本武尊是れを御掬ひ上げ参らせ御身に固く着け給ひて上総征討の事を行ひ給ふ先づ夷隅の叛徒を言向け和し其れより順次北東の方に進み遂に上総国の叛徒を討ち平げ給ふかくて此地に到り御陵を作り御身につけ参らせる比売命の御櫛を治め奉り橘樹二株をなして墾に御祭仕へ給ふ時は 景行の御宇四十二年正月十七日なり
(以下略)

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応仁年間と天正年間の兵火で社殿を焼失してしまったが、寛政十一年(1799)十一月に本殿が造営され、この本殿が現存している。
神社の後方には周囲170メートル、高さ10メートルの古墳が所在。

なお、この本殿造営の際に社殿の前に神木があり後ろに御廟陵がありいたって狭いために、氏子や役人と相談の上、神木を切り御陵の裾を切り開いて良いかの神意を伺ったところ、後ろの地所を切り開いてよいとの神意がでた。そこで鍬を入れたところ、土中から十一個の瓶や壺が出土した。そのうちの一個の大瓶には尊骸が納めてあると思い、驚いて封印して本殿に納めたという。この大瓶は現在は不明であるが、江戸期の頃から弟橘比売命の遺骸が埋葬されているという伝承があったことがわかる。ちなみにこのときの神主は幕府に処置を責められ蟄居を命じられたという。いずれにせよ、弟橘比売命の伝承は伝承として、この古墳祭祀が神社祭祀に変貌したことだけは確かであると思われる。

明治二十三年に拝殿、同四十四年に渡殿を造営して、現在の社殿の形となった。


橘樹神社ご本殿

「弟橘比売命御陵」碑。岩村俊武海軍中将謹書。

御陵

10時10分。上総国二の宮の橘樹神社に到着。
さすがに近隣では大きな神社。境内には参拝者がちらほら。

ご本殿の後ろには御祭神の御陵がある。実はこの神社に訪れたのは2回目であったが、この御陵に登れることを初めて訪れた時は知らなかった。今回は御陵にも参拝。結構な斜面を登れば頂上には鳥居があり、そして周りは橘の木々に囲まれていた。

10時30分。悠長な時間を過ごすほどには余裕が無かったので、次の神社へ。




「三之宮神社」<上総国三宮・旧郷社・長生郡睦沢町鎮座>

御祭神及び由緒由来は不詳。



三之宮神社 入口

禊場?

参道石段

三之宮神社

三之宮神社社殿

三之宮神社扁額

三之宮神社御本殿

末社群

11時。
橘樹神社から南下し、上総一ノ宮方面へ。慌てて一の宮に赴く前に三の宮に立ち寄り。
人知れずの三の宮。ここはその存在すら知らずで、今回訪れることができ大変貴重な空間を知ることができました。


長生郡睦沢町北山田の集落にひっそりと鎮座しているのが、「上総国三の宮」と称される神社。
山村の小道に社号標がぽつりとたっており、それ以外に神社を主張するものが感じられない空間。上り坂を進むと竹やぶがあり、脇の石段を静々とのぼればようやくに鳥居と社殿が見えてくる。今でこそ山村の鎮守様といったところではあるが、往時は上総国三の宮。その往時を誇り主張することはないが、神社空間は凛としており、その空間美で三の宮の歴史を語っているかのようであった。

11時20分。三之宮神社を離脱。いよいよ「上総一の宮」へ。




「玉前神社」<延喜式内名神大社・上総国一の宮・旧国幣中社>
(たまさき神社)

御祭神:
玉前神=玉依姫命(タマヨリヒメ命・神武天皇の母神・詳細)

創祀はあきらかではないが、景行天皇の頃に創祀されたという。
また祭神の玉前神に関しても異説は多く、高皇産霊尊の弟である生産霊尊の御子の前玉命とする説や高皇産霊尊の孫の前玉命、また大己貴命とする説もあるが、神社の見解では玉前神を神武天皇の母神である玉依姫命としている。もっとも「やおよろずの神々を想う」タマヨリヒメ命で記したように「玉=神霊・依=憑依、=巫女」であり、タマヨリヒメ=神武母神という図式は成立させ難く、海や玉との関係が各地で地域伝承として伝えられてきた結果と思われる。

かつては、玉浦(日本武尊東征に記載される地)とよばれた九十九里浜の南端にある釣が崎海岸(彦火々出見尊<山幸彦>が釣りをしたところと伝承)あたりに鎮座していたという。
延喜式に名を連ねる大社として古来から信仰を集めており、中世には武門の信仰も篤く源頼朝が政子の解任に際して安産を祈願したと伝えられている。
戦国の世には北条氏と里見氏の抗争に巻き込まれ、社殿をはじめ宝物・文書等を焼失してしまい、九十九里浜の北端に位置する海上郡領主の海上常忠を頼って十五年間遷座(現、飯岡の玉崎神社)していた。(当社と海上氏、そして九十九久里浜南端の玉前神社と北端の玉崎神社の関係は興味深いものがある。)その後、房総で勢力を確立した里見義頼によって天正十年(1582)に再建された。

明治四年には国幣中社に列し、昭和二十三年には当時皇太子であらせられた 今上陛下が御参拝になっている。

現在の社殿は江戸中期の貞享四年(1687)に竣工されたものである。
本殿は入母屋造りで正面に向唐破風を付け幣殿が拝殿と本殿をつないでおり、全体として複合社殿(権現造り)となっている。


茅の輪神事 年越しの大祓

ご神水

十二神社

社殿は修理中

社殿修復工事中

参集殿

11時30分。上総一ノ宮「玉前神社」に到着。

さすがに年の瀬。多くの参拝者で賑わっておりました。
平成25年までの予定で「平成の大修理」中のためご社殿は白幕におおわれておりますが、こればかりは致し方がなし。修復工事の無事の完了をお祈り申しあげます。
隙間から工事の様子をちらりと覗いてみたら、拝殿が解体され、その一本一本の支え木に修繕の作業が執り行われていた。これはかなりの大規模修繕なようです。

12時過ぎに出発。次に目指すのは神洗神社。




「神洗神社」<玉前神社末社・一宮町綱田鎮座>

御祭神:玉依姫命・鵜茅葺不合命・豊玉姫命・日子火々出見命

上総一ノ宮玉前神社の元宮。
神代の昔、御祭神が海から上陸された時その体を現れた洗われたと伝えられる池が参道の左に見え、神洗池と称されている。
現在の社殿は平成17年に玉前神社氏子有志により奉納されたものである。


神洗神社

神洗神社

神洗神社ご社殿

神新井神社の神池

神洗神社の御井

神洗神社の御井


12時15分。ここで別行動をされていた赤城おろしさんとも合流。
この神洗神社は玉前神社の元宮とされており、現在は玉前神社の末社。
玉前神社のことは知っていても、この元宮のことは知りませんでした。玉前神社から南東に約4キロ。社殿は南面。今は小さな祠と神池があり、神が洗ったという由来を伝えている。近くには井戸もあり、この井戸こそが神洗いだといわれている。


浜鳥居

上総十二社祭りの神輿が集う場所

神洗神社から海の方へと。九十九里ビーチラインの向こう側。海の入口に大鳥居。12月の冬の海であれど、サーファーが多数集まっており、そんなサーファー達の車に囲まれるように大鳥居が鎮座していた。
ここが「上総十二社祭り」にて十二社の神輿が集う石鳥居。再建は昭和56年9月。
この光景だけを見ると場違いな鳥居でサーファーがメインのようであるが、毎年9月13日の大祭の時は神輿が賑々しく集う場所となる。その時はどんな光景が広がっているだろうか、興味深いところ。

現時点では、神社参拝オフを開いている私たちがここにいることが場違いみたいではありますが。


12時40分。更に南下して、中原の玉崎神社を目指す。九十九里南端の玉崎神社。



「玉崎神社」<玉前神社の元宮・いすみ市岬町中原鎮座>

御祭神:豊玉毘売命・火遠理命・鵜茅葺不合命

約1200年前に西方より渡ってきた物部系氏族が和泉浦に創建したことにはじまる。
往古、夷隅川辺のまほらに鎮座し、大同2年(807)に大宮(現在の椎木)に遷座。
天正18年に兵火にあい仮宮となり寛永11年に再建。宝永4年(1707)に現在地に遷座。
現在の社殿は昭和4年造営。

かつては安房神社・香取神宮と共に「房総の三大神社」と称されてきた古社。
毎年9月13日に行われる「上総十二社祭」の本宮にあたる。
その昔、玉の浦と呼ばれた九十九里浜の最南端の太東崎の由縁から「玉崎神社」と呼称された。
宮司家は物部氏直系の一族という。


中原ノ玉崎神社

中原ノ玉崎神社

玉崎神社の狛犬 わんこっな感じ

玉崎神社の狛犬

玉崎神社社殿

玉崎神社社殿

玉崎神社御神木

玉崎神社境内の琴平神社

玉崎神社境内の琴平神社

玉崎神社境内の琴平神社

到着したのは13時。予定よりもだいぶ遅れての到着。境内は年越しの茅の輪の準備で賑やかだった。

私たちが予定よりも遅れてしまったので御朱印を頂戴するタイミングも悪くなってしまった。
宮司様にお忙しいなかで時間を捻出していただき、御朱印を拝受。
宮司様に神様が降臨してしまったようで「神神」なのはご愛嬌。

途中、突発的な雨が降ってきたりするも、ゆっくりとした時間を境内で過ごすことができました。
ちなみに、ご一緒していた門前人さんとはここで解散。

境内の琴平神社は巷では「いわゆるパワースポット」として有名だそうで。椎の木が琴平神社の祠を円形に取り囲み、鬱蒼たる緑の中で差し込む木漏れ日が気持ちよく、たしかになるほどなあ、という空間。

玉前神社の元宮と伝承される古社。つまり一の宮にあたるのかどうかは定かではないが、伝承からは歴史の深さを感じさせてくれる。玉崎神社、玉前神社、神洗神社。この三社の関係はかなり気になるところではある。

15時15分。かなり時間が押してしまった状況で出発する。




「玉崎神社」<下総国二の宮・旧郷社・朱印・千葉県旭市飯岡鎮座>

前回参拝記事

御祭神:玉依姫命・日本武尊

景行天皇40年(111)、日本武尊が東征の際、玉之浦の東端、玉が崎に創建した事に始まる。
中世には下総国二ノ宮とされ「三崎庄横根郷玉ヶ崎大明神」「玉の浦総社玉ヶ崎大明神」と呼称されてきた。
かつては「龍王岬(玉ヶ崎)」の地にあったが、天文年間に兵火に遭い、積年の海蝕を避け現在地に移したと伝えられている。
上総一ノ宮「玉前神社」とともに九十九里浜を鎮護する神社として崇敬をあつめる。九十九里浜の北端に下総国二ノ宮「玉崎神社」、南端に上総国一ノ宮「玉前神社」が鎮座していることとなる。
佐倉藩主堀田氏、久留里藩主黒田氏や国学者平田篤胤、大國隆正らが参拝しており近年には竹久夢二のほか、多くの漁業関係者などから崇敬をあつめている。

社殿は権現造り。本殿は元禄10年(1697)、拝殿は嘉永5年(1852)に再建。千葉県指定有形文化財。

明治期になり社号を「玉崎神社」と改称し、明治19年に郷社列格。

公式サイト


飯岡ノ玉崎神社 大鳥居
(撮影は平成22年12月)

飯岡ノ玉崎神社 大鳥居
(撮影は平成22年12月)

飯岡ノ玉崎神社

こちらは参考までに 平成21年に頂戴した御朱印。

さすがに遅くなって、九十九里を北上して南端の中原ノ玉崎神社から、北端の飯岡ノ玉崎神社にたどり着いたのは16時30分。
こちらはアポイントはとっていなかったので、すでに社務所もしまっていました。よって御朱印はその前年に頂戴したものを掲載。

16時45分。飯岡ノ玉崎神社を出発。ここからさらに過酷な移動が繰り広げられることとなった。
ここから銚子の銚港神社に向かい、そこで神楽さんとも解散。

銚港神社では、赤城おろしさんが先んじてアポイントをとってあり、今回は「銚港神社」とあわせて兼務社の「川口神社」の御朱印を書き置きにて用意して戴きました。川口神社の御朱印が頂戴できたのはかなりありがたく。

さらに18時過ぎて東大社、豊玉姫神社と移動して、最後の雷神社に到着したのは19時30分。
銚子大神幸祭三社の宮司さんともアポイントをとってあり、御朱印を頂戴する手はずになっていたのだ。

予定よりも時間が遅くなってしまい、そんな中でお待ちしていただいた宮司さんに大変なご迷惑をおかけしてしまいました。
この場を借りて、遅くなってしまいましたが御礼として。ご配慮ありがとうございました。



「銚子大神幸祭三社そのほか」


そんなわけで「東大社」「豊玉姫神社」「雷神社」を回るもすでに日没。

神社に関しての記事はこちらを。
平成20年12月の記事「銚子大神幸祭三社 探訪記
平成21年12月の記事「東総御朱印紀行〜銚子大神幸祭関連神社ほか〜

以下は、もはやのメモとして、神社の写真と御朱印を掲載しておきます。



参拝時の東大社 18時

見ての通りにまっくらです。。。

参拝時の雷神社 19時30分

銚港神社
(写真は平成21年12月)
過去の参拝記事

川口神社
(写真は平成19年)
過去の参拝記事
以下、写真は平成20年12月参拝時のものを転載します。

平成20年12月の記事「銚子大神幸祭三社 探訪記
平成21年12月の記事「東総御朱印紀行〜銚子大神幸祭関連神社ほか〜

御朱印は今回頂戴したものです。

東大社

豊玉姫神社

雷神社

そうして、最後に雷神社を出発したのが20時。
いつもながらというか毎年ながらというか。
豊玉姫神社と雷神社の宮司様には遅くまでご迷惑をおかけしてしまいます。
今回も雷神社の宮司様にいろいろなお話をお伺いして、最後まで楽しい時を過ごすことができました。


オフ会的にもこれまで。
今回の神社参拝オフメンバーは、神楽さん、赤城おろしさん、御津垣さん、門前人さん。

 主催:神楽さん
 「関東の神社めぐり〜プチ神楽殿<http://kaguraden.blog11.fc2.com/>」
  掲示板<http://www.kaguraden.net/patio/

私的には最後はJR佐倉駅に送って頂きまして21時30分。ここから都内に帰宅することとなりました。

改めて。お疲れ様でした。ありがとうございます。

・・・レポートが遅くなってしまいまして、なおかつ中身の薄い状況で申し訳ないです。




平成23年 房州開運波乗り神社めぐり 御朱印帳 二十二社版


参考文献等
各神社境内の案内板等

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