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イワレビコ(神武天皇)の東征

 

この段からは古事記を主・日本書記を副とはするが、詳細は気にせずに、流れを重視したい。また、神と人の区別を明確にはしない。


神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=前述=のち神武)と、兄の五瀬命(いつせのみこと=前述)は二柱で高千穂の宮にお住まいになっていたが、ともどもに相談なされて「天下の政を行うにはさらに東へ行こう」とお考えになり、日向から筑紫の地へ御行幸遊ばれた。
 

      「日本書紀」によるとイワレビコ命は十五歳で立太子し、日向国の吾平津媛(あひらつひめ)を后とし多芸志美美命(たぎしみみのみこと)を生んだという。この九州系の血筋と、東征後の大和系皇后の御子が、のちの後継者(第二代天皇位)問題となる。

      またイワレビコ命は塩土老翁(シオツチ神=前述)に東方によき国があると教わり四十五歳にして東征を始めたという。

 

吾平津媛
(阿比良比売)

あひらつひめ

・神武天皇の后
・阿多小椅君(あたのおばしのきみ)の妹
・大隅国の郡名に阿比良という地名がある

多芸志美美命
(手研耳命)

たぎしみみのみこと

・神武天皇と阿平津媛の御子
・東征に従う(日本書紀)
・神武天皇崩御後、義母である伊須気余理比売(いすけよりひめ)を妻とし、皇位継承のため異母弟を殺そうとするが、伊須気余理比売が子に危機を知らせ、末弟の神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと=第二代綏靖天皇)に殺される

岐須美美命

きすみみのみこと

・神武天皇と阿平津媛の御子

 

そうして豊の国宇沙(大分宇佐)にお着きになり、その国の宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比売の二人が足一騰宮(あしひとつあがりみや)を作り、ご馳走をさし上げた。
さらに筑紫の岡田宮(福岡芦屋)にお着きになりそこに一年お住まいになった。
そこからまた、阿岐の国多祁理(広島安芸)に七年お住まいになり、次いで吉備国高嶋宮(岡山)に八年お住まいになった。
また、その国から東に向かう時に国つ神と出会い、伴として瀬戸内海の道案内をさせた。この神を槁根津日子(さおねつひこ)という。

 

槁根津日子
(椎根津彦)

さおねつひこ
(しいねつひこ)

水を司る神
・天津日高日子穂穂手見命(火遠理命=前述)の孫ともいう(先代旧事記)
・大和平定の戦で活躍

倭国造の祖

 

その後、浪速の渡り(大阪湾)を経て白肩津(しらかたのつ=大阪東大阪)に上陸された。この時、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)が軍勢を引き連れて迎え撃ってきた。そこで船の中にあった楯をお使いになったので、この地を楯津(たてつ)というようになった。(=日下の蓼津)
このナガスネビコとの戦い(孔舎衛坂の合戦)の際に、イツセ命が敵に矢を射られ手に負傷してしまう。命は「私は日神の子として、日に向かって戦うことは不吉である。そのためにいやしき奴によって痛手を負ってしまった。これからは回り道をして、日を背にして戦おう。」と仰せられ、南の方へ回航して途中、手から流れる血を洗い流して、紀国の男之水門(をのみなと=和歌山紀ノ川河口)にたどり着いた。しかしこの地でイツセ命は「私はいやしき奴に傷つけられて死ぬのか」と雄叫びして、お亡くなりになった。そこでこの水門を男之水門と呼ぶという。

 

登美能那賀須泥毘古

とみのながすねびこ

・ 神武の兄イツセ命を矢で倒した人物

 

イワレビコ命は、さらに回り道をし熊野の地にたどり着いた。ここで熊野の荒ぶれる神の毒気に当たりイワレビコ命は病み疲れ、軍勢のみなも病み疲れて伏せてしまった。そこへ熊野の高倉下命(たかくらじのみこと)が一太刀を持ち、天つ神の御子の伏している所に来ると、イワレビコ命はすぐさま目を覚まし、「長く寝たことだ」といい起きあがった。
そしてその太刀を受け取ると、熊野の山の荒ぶれる神々はつぎつぎと切り倒され、病み疲れた軍勢もまたみな目を覚ましたのであった。
そこでイワレビコ命がタカクラジ命にそのわけを尋ねるとタカクラジ命は「私の夢にアマテラス大御神前述)とタカギ神前述)の二柱の御言葉でタケミカヅチ神前述)をお召しになり『葦原中国はたいそう騒がしい様子である。御子たちが病み悩んでいるようだ。この葦原中国はお前が最初に平定した国だから、お前が降って助けよ』と仰せられた。するとタケノミカヅチ神は『私が降らずとも、国を平定した太刀があります。この太刀を降らせましょう。』とお答えになり布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ=フツヌシ命、前述)を、私の倉に落とし、そして私に『タカクラジよ。朝目を覚まして、この太刀をお前が持って天つ神の御子に奉るがよい』とおおせられたのであります。それでこの太刀を持って奉った次第です」と申した。

 

高倉下命

たかくらじのみこと

天香久山神と同神とされる=天火明命の御子(前述
・布都御魂剣(フツヌシ神=香取神)を授かり、イワレビコ命に奉じる
・神武天皇四年に越後開発の命を受け、弥彦の地に移住したという
弥彦神社(新潟弥彦)高倉神社(三重上野)

 

      日本書紀によると、熊野に向かう途中の船の上で、にわかに暴風雨に遭い、船が漂流してしまった。この時イナヒ命(前述=イワレビコ命の兄弟)が「私の祖は天神で海神なのになぜ厄災に遭わせるのか」といい、剣を抜いて海に入り鋤持神(さいもちのかみ)になった。ミケイリヌ命前述=イワレビコ命の兄弟)も悩み「私の母と叔母はともどもに海神である。なぜに波を立てるのか」といい、波を踏んで常世の郷へ去った。そしてイワレビコ命が皇子のタギシミミ命とともに軍勢を率いて熊野に到着したという。

 

 

そしてまたタカギ神の御言葉は「荒ぶる神が多いから天つ神の御子をこれより奥に立ち入らせてはいけない。今、天から八咫烏(やたがらす)を遣わそう。これより先はこの烏が先導するから、後をついて行かれるがよい」と仰せられた。
そしてヤタガラスの後について吉野川の川尻から宇陀の地に着くまでに三柱の国つ神を従えた。

 

八咫烏

やたがらす

・神武天皇一行を吉野まで案内する神の使い
・下の神と同神かどうかは不明

賀茂建角身命

かもたけつぬみのみこと

・神魂命の孫といい、神武東征の際、ヤタガラスとなって導いたという
・賀茂県主の祖
・御子に建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)、建玉依比売命の二子があり、、建玉依比売命が大山咋神(前述)と婚姻して賀茂別雷神をうんだという
賀茂御祖神社下鴨神社賀茂別雷神社上賀茂神社)(京都)ほか、全国の賀茂神社

 

贄持之子

にえもちのこ

・吉野川の川尻で魚を捕っていた人
・阿陀鵜飼(あたのうかい)の祖

井氷鹿

いいか

・井戸から出てきた尾のある人
・吉野首の祖

石押分之子

いわおしわくのこ

・山の中からでてきた尾のある人
・吉野国巣の祖

 

 

宇陀には兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)との兄弟がいた。そこでイワレビコ命はヤタガラスを遣わして帰順を促したがエウカシは矢でヤタガラスを射返してしまう。エウシカはイワレビコ命軍を迎え撃とうと、自分も軍勢を整えるが集めるのに失敗したため「お仕えします」といつわりを申して殿に罠を作って待ちかまえることにした。オトウカシは、それを知り、イワレビコ命に拝すと「私の兄は、天つ神の御子の使いを射返し、軍を集めようとしましたが失敗しました。そこで殿の中で罠を作って、あなた様を殺そうとしております。そのために私は参って事を打ち上げる次第でございます。」と言った。
そこで道臣命(みちのおみのみこと)、大久米命(おおくめのみこと)の二人が、エウカシを呼び「貴様がさきに殿にはいって、そのお仕え申す様を明らかにせよ」と言い放ち、太刀を握って、矛を揺るがし、矢でもって追い入れたところエウカシはたちまち自分が作った罠にかかって死んでしまった。
そしてオトウカシが奉った御馳走を軍勢に与え、イワレビコ命は歌を歌った。

 

兄宇迦斯

えうかし

・イワレビコ命を殺そうとして失敗、自分が罠にかかって死んでしまう

弟宇迦斯

おとうかし

・兄に反対しイワレビコ命に帰順する
・宇陀の水取の祖

 

道臣命

みちのおみのみこと

・大伴連らの祖
天孫降臨時の天忍日命(前述)の子孫か

大久米命

おおくめのみこと

・久米直等の祖
・天孫降臨時の天津久米命(前述)の子孫か

 

このあと、イワレビコ命の軍勢は吉野・宇陀から忍坂の大室(桜井)に到達する。そこには土蜘蛛と呼ばれるたくさんの猛者たちがいたがイワレビコ命は同数の料理人に太刀を持たせて一人一人を饗応しながら歌を聞いたら切れ、と言い含めて歌うと同時に討伐をした。

 

 

 

古事記ではそのあとも歌い、言葉の上では一言で宿敵ナガスネヒコを討伐し、橿原宮にて天下を治めたことになっているが、勲章にもなった有名な「金鵄」の逸話も出てこないので、次段では、「日本書紀」を中心に話を進めたい。

 

 

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