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武蔵国の延喜式内社
(入間・埼玉)

紫字神社が延喜式神明帳記載神社。
神社名
が複数書いてある場合は延喜式内社の候補として数論ある場合。いわゆる「式内論社」。
神社名リンク先は掲載神社。他の地区は「武蔵国の延喜式内社」。

武蔵国延喜式内社44座(大社2座・小社42座)
武蔵国(埼玉県内−33座中9座)
入間郡−5座埼玉郡−4座

以下、列記してみたい。
なお一部の表記できない漢字を現代漢字に改める。
不明と記してあるのは本当に不明の場合もあるが、おおむね執筆者の調査不足による不明である。ご存じの方が居られたらお教え願いたいと思う。


入間郡(【イルマ郡】現・埼玉県川越・所沢・飯能・狭山・入間・上福岡・富士見・坂戸・日高・大井・三芳・毛呂山・越生・鶴ヶ島・名栗)
5座(小社5)

『出雲伊波比神社』(いずもいわい神社)
出雲伊波比神社(いずもいわい神社・埼玉県内最古の神社建築・国重要文化財・郷社・入間郡毛呂山町岩井鎮座)
祭神:大名牟遅神(オオナムチ神)天穂日命(アメノホヒ命)品陀和気命(ホンダワケ命=応神天皇)息長帯比売命(オキナガタラシ比売命)他16柱
古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年(123年)に倭建命(ヤマトタケル命)が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。
当社は宝亀3年(772)12月の太政官府に朝廷の奉幣が絶えたのを怒り雷神を率いて入間郡の正倉を焼いたとされている神社で、中世に活躍する毛呂氏や越生氏が祭祀した神社だろうとされる。
本殿建築は流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年=1528年)9月15日に毛呂三河守藤原朝臣顕重が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財である。
中世期には茂呂(毛呂)明神、飛来明神、八幡宮とも称されていた。ちなみに八幡宮は源頼義父子が当社を参詣後に凱旋し、八幡宮を相殿にまつったことに始まり、明治期まで二社併立していた。明治4年に八幡宮その他を合祀し明治6年に郷社列格。
当社は、埼玉県内で「流鏑馬」(11月3日)が唯一毎年奉納される神社でもある。


出雲祝神社(村社・所沢総鎮守・入間市宮寺鎮座)
祭神:天穂日命(アメノホヒ命)・天夷鳥命(アマヒナドリ命)・兄多毛比命(エタモヒ命=武蔵国造)
もと寄木明神といったという。第十二代景行天皇の頃(約2000年前)、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地に立ち寄り、天稲日命・天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬したことに始まる神社。出雲祝神社は江戸以降明治期まで物部天神社の神職によって兼務。明治5年に村社列格。


氷川神社(県社・川越氷川神社・川越市宮下町鎮座)
祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命・脚摩乳命(あしなづちのみこと)・手摩乳命(てなづちのみこと)
欽明天皇二(540)年九月十五日鎮座、武蔵国造が大宮氷川神社より分祀、奉斎したという。のち室町時代の長禄元(1457)年、川越城の築城にあたった太田道灌は篤く当社を崇敬し川越城の守護神とした。小田原北条氏滅亡後に関東を支配した徳川家康は重臣を川越城主として江戸北方の守りにつかせ、以後代々の城主が川越総鎮守として崇敬してきたという。なお現在の本殿は嘉永二(1849)年の落成。摂社八坂神社は寛永十四(1637)年三代将軍家光が二ノ丸に東照宮として建立し明暦二(1656)年、川越城内の三芳野神社拝殿に移築され、更に明治五年に氷川神社境内に移築され八坂神社社殿となったという遍歴をもっており、江戸城内の宗教建築遺構として全国唯一の貴重な社殿とされ、氷川本殿共々埼玉県指定文化財となっている。また「柿本人麻呂神社」や太田道灌手植えの矢竹や大鳥居の扁額(勝海舟筆)等が興味深い。
当社を式内論社というが、詳細は不明。

物部天国渭地祇神社(下掲載)に合祀説もある。


『中氷川神社』
中氷川神社(入間多摩二郡総鎮守・県社・所沢市山口鎮座)
祭神:素戔嗚尊・奇稻田姫・大己貴命
創立は崇神天皇の頃といわれている。大正9年郷社、昭和12年県社列格。
昭和20年にGHQの民間情報教育局局長であったダイク代将が「民間のまつりをみたい」という申し出を東京大学の岸本秀夫助教授にしたところ11月25日に、当社で特別に祭礼がとりおこなわれ、のどかな村祭りを見物した民間情報局一行が日本の「神道を認識し直し、民衆の神社信仰を見直したといわれている。戦後の神社界で非常に大きな意味合いを担った神社。
氷川と名乗るからには武蔵国造丈部一族が祭祀していたと考えられる。おそらくは大宮の氷川神社と武蔵国国府(東京都府中)との「中」という意味であろう。または「中武蔵」の氷川神社という意味もあるだろう。大宮の氷川神社と奥多摩の氷川神社(奥氷川神社・旧村社)との中央にあるため中氷川と呼んだとの説もあるが、これは後世の氷川信仰の拡大によるものとされる。また武蔵三氷川のひとつと称せられている。


中氷川神社(郷社・所沢市三ヶ島鎮座)
祭神:素戔嗚尊・大己貴命・少彦名命
崇神天皇の時に神託によって勧進。のち日本武尊が通りかかった際に霊威を感じて大己貴命・少彦名命両神をまつったという。古くは「長宮(中宮)明神社」と呼ばれた。


『廣瀬神社』
廣瀬神社(県社・狭山上広瀬鎮座)
祭神:若宇迦能売命(ワカウカノメ命)・倉稲魂命
日本武尊が東征の途中、この地に立ち寄り、この地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社の地域によく似ていると称し、幣帛を立てて穀物の神である若宇迦能売命を祀り、武運長久と五穀豊穣を願ったことに始まるという。しかし大和の広瀬神社は日本武尊の時代よりも後の天武天皇4年の創始とされており、武蔵国に分祀された記録もない。おそらく社名は大和国広瀬神社と同様な川の合流地点にあり、広い川瀬の地形からきたのであろうとされている。明治6年に郷社、明治7年に県社列格。
境内には狛犬がないのが特徴的。祭神が女神のため、荒々しいものを嫌うとされ、獅子の狛犬が遠慮されたという。


『物部天神社』(もののべ天神社)
物部天国渭地祇神社(下)に合祀
神護景雲2年(768)恵美押勝の乱に際して武蔵国造丈部氏とともに軍功を立て、その後東北経営にも参加して功績を挙げ、入間宿禰の名を賜った物部広成一族が祭祀した神社と思われる。さらに遡れば武蔵国造である物部連兄麻呂一族の祭祀とも考えられる。いずれにせよ、物部系統である。


『国渭地祗神社』(くにいちぎ神社)
物部天国渭地祇神社(もののべてんくにいちぎ神社・県社・通称北野天神社・所沢市北野鎮座)
祭神:
物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
物部天国渭地祇神社とは物部天神社・国渭地祗神社・天満神社の総称である。景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である菅原修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀、坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ、3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
日本武尊伝説や「もののべ・もののふ」が武士に通じるというところからいつのころからか武神として信仰をあつめる。前九年の役にときには源頼義・頼家親子、征奧の際には源頼朝らの戦勝祈願をうけ、また太平記の頃の小手指ヶ原の戦いの際は宗良親王が陣を張っている。こののち一時衰退していたのを菅原氏の血統をひくという前田利家によって崇敬され中興した。
本殿は安永7年(1778)。明治5年に郷社、明治34年に県社に列格した。


国渭地祇神社(坂戸市森戸鎮座)
祭神:八千矛命他
当社は高麗川の西岸、旧鎌倉街道に面して鎮座。創建はあきからでないが、古社であることは確認されている。もとは国で一番のやしろという意味で「国一熊野大権現」と称していた。創立には越生の本山派修験山本坊と結びついていた別当三宮山大徳院が関係していたものとされている。
延暦年間には坂上田村麻呂が社殿を再営し、のちに奥州藤原秀衡が再建したと伝わっている。


埼玉郡(【サイタマ郡】現・埼玉県行田・羽生・加須・騎西・北川辺・大利根・鷲宮・岩槻・春日部・越谷・久喜・八潮・蓮田・宮代・白岡・菖蒲)
4座(小社4)

『前玉神社 二座』(さきたま神社)
前玉神社(一社二座・郷社・埼玉郡総社・別称埼玉浅間神社・行田市埼玉鎮座)
祭神:前玉彦命・前玉姫命
前玉は埼玉の語源であり、埼玉県の名の起こりはこの地からであるという。付近には「埼玉古墳群」があり、当社も「浅間塚古墳」(高さ8.7メートル、周囲92メートル、直径22メートル)の上にある。祭祀集団は当然、埼玉古墳群を築いた武蔵国内の有力な豪族(武蔵国造)と思われる。
社地に養老山延命寺という真言宗の別当寺があったが、明治3年に廃寺となった。この寺が焼失した際に、当社の記録などもすべて失ってしまったという。
中世に忍城中にまつられていた「浅間神社」を社内に勧進したが、浅間神社の方が盛んになってしまったという。古墳上を「上ノ宮」、中腹を「下ノ宮」としていたが、近世には本社までもが「浅間」の神号におかされ、総じて浅間神社とよばれるようになったという。明治維新の際に「上ノ宮」を「前玉神社」、「下ノ宮」を摂社の「浅間神社」としたが、今でも近隣では浅間神社と呼ばれているという。
明治6年に郷社列格。古墳群にはさきたま資料館等がある。


『玉敷神社』
玉敷神社(県社・別名久伊豆大明神・埼玉郡総鎮守騎西領総氏神・北埼玉郡騎西町騎西鎮座)
祭神:大己貴命
創立は成務天皇6年(136年頃?)、兄多毛比命(エタモヒ命)が武蔵国造になった時に出雲大社の分霊を遷座したともいうが、文武天皇の大宝3年(703)に多治比真人三宅麿が東山道宣撫のため東国に下った際といわれている。延喜式(927)に記載されている式内社。
武蔵七党のひとつ私市(きさい)党の崇敬を受けていたが、天正2年(1574)に上杉謙信が私市城を攻略した際に、現在地よりも北方の正能村(現騎西町正能)に鎮座していた玉敷神社はその兵火にかかり消失、古記録社宝などのすべても焼失した。
徳川時代に、根古屋村(現騎西町根古屋)の騎西城大手門前に再建されたが、慶長5年(1600)に大久保忠隣が騎西城主となり、その孫大久保忠職が寛永期(1620ごろか)に延喜式内社宮目神社社域に社殿を造営し遷座した。
江戸時代までは「久伊豆大明神」と称しており、埼玉県各地に点在する久伊豆神社の本社ともされている。
現在の社殿は本殿幣殿が文化13年(1816)の建築。拝殿は明治31年(1898)の修築。
当神社には一社相伝で伝わる「玉敷神社神楽」(県指定無形民俗文化財・400年を超え江戸神楽の原形を伝えるという)が有名である。現在は2月1日、5月5日、7月15日、12月1日に玉敷神社神楽が奉奏されている。
また「獅獅子様」と称する神宝が祭神の分霊として春に農村各地に迎えられ、祓祭をする風習が残っており、その風習は埼玉県内・群馬・茨城の一部に及び170ヶ所にわたるとされている。
明治5年に郷社、大正13年に県社列格。


『宮目神社』
宮目神社(玉敷神社境内社・地主神・北埼玉郡騎西町騎西鎮座)
祭神:大宮能売命
玉敷神社が遷座してくる前の鎮座神は宮目神社であった。現在は玉敷神社の境内社となっている。

姫宮神社(村社・南埼玉郡宮代町鎮座)
祭神:市杵島姫命・田心姫命・多岐津姫命
当社の境内や近隣は「姫宮神社古墳群」が存在し、その開発の古さをうかがうことが出来る。
創建伝承として以下の話が伝わる。天長五年(824)に桓武天皇の孫に当たる宮目姫が滋野国幹に伴われて下総国に下向の途中に当地に立ち寄られた。付近の紅葉の美しさにみとれているうちに、宮目姫はにわかに発病して息絶えてしまった。後に当地を訪れた慈覚大師円仁が、姫の霊を祀り姫宮明神としたのが創建とされている。
現在の社殿は江戸期の再建。また、当社の右手の八幡社は六世紀後半頃の古墳上に鎮座している。
一説に、延喜式神明帳の「宮目神社」が当社であるともいう。
昭和30年に百間村の総鎮守たる「姫宮神社」と須賀村の総鎮守たる「身代神社」に由来して「宮代町」が誕生している。

宮目神社論社としてはそのほかに熊谷市(大里郡大里町)高本鎮座の高城神社南埼玉郡菖蒲町上栢間鎮座の神明神社もあるが論拠不明


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