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高神
外川から高台に上っていったところ。すなわち愛宕山の「地球が丸く見える丘」近郊が高神の集落となる。
以前記載したとおり、この式年銚子大神幸祭では高神の宮三郎家が重要なポイントともなっている。
〜銚子大神幸祭 地元伝承(外川・高神)〜
銚子大神幸祭で、神幸が必ず立ち寄ってきた場所が「宮三郎家」。なぜ立ち寄る事になったのかの答えが地元伝承にあった。
宮三郎家初代の山口三郎政春は筑紫福岡の人。
推古3年(594)蘇我馬子の将軍であった紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね・任那救援将軍や物部守屋征伐に活躍)の入朝に随行し、のちに東国にはいり、武蔵に来て妻を娶り山口三郎政春と名乗った事に始まるという。
のちに銚子の地にて海岸に住居を構え、この地を高見の里と名付け住居する所を日和山と呼称し開拓に従事。
4代山口三郎政明が和銅2年(709)に初代三郎政春より漁業を業として世を渡るをもって海神・綿津見命を渡海神に祭り、山口家の氏神とした。(渡海神社の創始は一説に和銅2年(709)とされている)
13代山口三郎政貞が、康保4年(967)に氏神であった渡海神を里人と相議し鎮守神と定め、鎮守渡海大明神と改めた。日和山に祀られた氏神改め鎮守渡海大明神を高見の里に遷座。(延宝2年1674に現在地に遷座)
16代山口三郎政信のとき、銚子外川の海岸に王子大明神(東大社の別称)の「光玉」があがったとされる。その地を「立石」と名付け、三郎政信の拾い上げたところいう。その光玉を宮三郎家の旧地である高見日和山にて奉り、山口家菩提寺賢徳院(天平2年(730)創立)に立ち寄り休憩をし宮三郎家に奉じたという。そののち香取郡諸持里境、彦次郎入道なる者がやってきて、光石を東大社に勧請。その際に東大社に赴くまでのしばらくのあいだを途中の御産宮にて光石を奉じていたといわれている。
この16代山口三郎政信の康和4年(1102)の第1回より代々の山口家が東大社の御幸にたずさわり前回53回御神幸では第47代山口宮三郎宮政がお迎えをした。
ゆえに宮三郎家は渡海神社・東大社と深い関係にあり、御神幸に際しては巡幸が光石のたどった逆順にて御産宮−渡海神社−外川港−賢徳寺−宮三郎家旧跡(高見日和山)−宮三郎家と山口宮三郎の伝承と関係の深い場所に立ち寄る事となる。
光石は伝承では東大社に納められていることとなるが、どのようなものかは不詳。一説には「琥珀」ではないかともいわれている。
(銚子と岩手の久慈が唯一の琥珀の産出地)
宮三郎家旧跡(高見日和山)
到着したのが、14時。宮三郎家での神輿巡業はタイムスケジュールでは13時50分〜15時20分となっていたが、まだ神輿が来る気配はない。露払いを勤める倉橋の「弥勒三番叟」の面々と渡海神社の宮司さんはいるけれども、といった按配。
テントが設けられ、神輿関係者向けにもてなしの軽食が用意してあるも、さていつくるのでしょうか? |
不浄の輩、一切入るべからず
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この石の場所にそれぞれの神輿が駐留するという。
奥から「雷神社」「東大社」「豊玉姫神社」 |
宮三郎家旧宅と祠 |
東大神を祭る小祠 |
東大神を祭る小祠 |
宮三郎 山口家の女が十二単で神輿を迎えるのを慣例とする。
宮三郎家出立時には「オウジンオタチアレ」の発声にて神輿出御をする。
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14時50分。露払い、倉橋「弥勒三番叟」の始まり。
ようやくに神輿が来る時間のめどがついたらしい。
都合1時間遅れ。
神輿は外川関所のあと、高神関所−賢徳寺−宮三郎旧宅−宮三郎新宅の順という。
外川関所から高神関所−賢徳寺でどうして1時間遅れているのかは定かではないが、結果として遅れている模様。
午前中は問題なさそうな時間進行で安心したんだけどなあ。 |
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倉橋「弥勒三番叟」と太鼓演奏がおわったら、またしばしの休憩。
実際に神輿がやってきたのは15時50分。この時点でスタート2時間遅れ。
三社の神輿がそろったのが16時20分過ぎ。 |
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残念なことに、三社の神輿が揃ったところで、私のサブカメラも電池切れ。どうにも写真が撮れなくなった。
この先の祭礼は悔しいことに記録できず。
私もそろそろ帰り支度をしないといけないので、電池が切れたということもあり犬吠駅方面に撤退をする。
17時すぎ。高神関所。
こちらは1時間20分遅れで「羽計の雲助・大名行列」が始まる模様。
時間をあけて、若干復活した電池で持って記録撮影をするもすぐに電池は終了。
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地元の人にお勧めといわれた「大名行列」は結局見れずじまいで、カメラ電池も終わり、私の帰る時間ともなった。
最後は尻切れぎみであれど、外川までは堪能できたので、結果としては満足。
時間遅れがなければ「白幡神社駐泊」まで追いかけれられたかもしれないが、
時間もズルズルと遅れさすがに東京に帰ることを考えるとここが潮時であった。
初日は約1000枚、2日目は約600枚撮影。電池の心配がなければもっと撮ったことだろう。
いずれにせよこれにて写真記録は終了です。次は20年後に。
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